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2009.11.19 吉田松陰
萩に行く前に書いてしまいたかったので、がんばりました。
相変わらずグダグダ…

読んでくださる方は続きからどうぞ。

 吉田松陰

 吉田松陰

文政13年8月4日(1830年9月20日)~安政6年10月27日(1859年11月21日)
長門国萩松本村護国山麓団護岩生まれ。藩士杉百合之助の次男。
通称:虎之助 大次郎 松次郎 寅次郎  字:義卿 子義  号:松陰 二十一回猛士  諱:矩方
享年29 贈正四位


生涯
下級武士・杉家の次男として生まれる。6歳の時、藩の山鹿流兵学師範で叔父である吉田大助の養子となる。幼少時から叔父・玉木文之進の厳しい指導をうけ、わずか11歳で藩校明倫館で山鹿流兵学の講義を受け持ち、藩主・毛利敬親の前で『武教全書』*を講じるほどであった。
嘉永3年(1850年)、21歳の時に藩から諸国修行を許され、全国各地を遊歴。このとき江戸に在住していた佐久間象山の門下に入り、長岡藩士・小林虎三郎と共に「象門の二虎」と称された。
嘉永5年(1852年)、藩に無許可で宮部鼎蔵らと東北遊歴をした為、士籍剥奪・世禄没収となった。
嘉永6年(1853年)、浦賀に来航した黒船を目撃し、西欧文明に大きな衝撃を受けた。
その翌年の安政元年(1854年)に弟子の金子重之助とともに、浦賀のペリーの艦隊に乗り込み、密航を試みたが拒絶された。
そのため松陰は奉行所に自首をし、伝馬町の獄に送られ、その後萩の野山獄に投獄される。

安政2年(1855年)末、実家である杉家に幽閉のみとなり、翌年3月から身分に関係なく門下生を集め講義を始める。
安政5年、幕府が無勅許で日米修好通商条約に調印したことで幕府批判を開始する。そして老中首座・間部詮勝の暗殺計画をたてるものの、高杉晋作・久坂玄瑞・桂小五郎等が反対。その為計画は中止となり、松陰は再び野山獄に投じられた。
やがて大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、松陰は江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。
取り調べの際、松陰は素直に自供し、暗殺計画も未遂だったことから、幕閣の大半は「遠島」が妥当と考え松陰自身もそう思っていたが、井伊直弼の一言により死刑判決を受ける。
安政6年10月27日、江戸伝馬町で斬首。享年29歳であった。

*『武教全書』…山鹿素行の著書


松陰と松下村塾
松下村塾は吉田松陰が開いた、とよく書籍等に書いてあるが実はそうではない。
創設者は松陰の叔父・玉木文之進である。松本村の自宅に、近所の子供達を集め私塾を開いたのが始まりであり、松陰自身も学んでいる。その後、外叔父である久保五郎左衛門が主宰を継いだ。
つまり松陰は3代目の主宰者なのである。
松陰が村塾を指導したのは約2年10ヶ月である。松陰は自分を「僕」、門下生を「君」と呼び、次第に塾生達の間でも浸透していった。つまり松陰は「師弟」という関係ではなく、対等な「友人」という関係で接していったのである。
村塾での授業は一般の寺子屋や私塾とはまったく異なるものであった。
主に時事問題を中心とし、塾生同士で議論をし、互いの意見を交換したりする。また議論だけではなく、ときには川で泳いだり山へ出かけたり、農作業をすることもあった。
また、塾生が増え講義室が狭くなった為、塾生達とともに増築をするなど、まさに「生きた学問」であった。
そんな松陰の下には多くの若者が集まり、松陰の死後、師の志を受け継ぎ維新へと向かっていくのである。


<参考文献:『吉田松陰と塾生たち』 『吉田松陰 留魂録』>



あとがき

後半はもう何が言いたいのか分からなくなってしまいました…
意味わかんないので無視しちゃってください。
本当は塾生とのことをもっと書きたかったんですが、長くなりそうなのでやめました。
また別の機会に書きたいと思います。

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