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2009.08.04 品川弥二郎
2人くらい書きたい、とか言いながら結局1人しかできませんでした。

やっぱり人物紹介は疲れます…



品川弥二郎

品川弥二郎 品川弥二郎2



天保14年閏9月29日(1843年11月20日)~明治33年(1900年)2月26日
長門国萩松本村船津生まれ。中間品川弥市右衛門の長男。
通称:弥二郎  字:思父  号:扇洲・花月楼・尊攘堂主人  諱:省吾・弥吉
享年57


生涯
あだ名は「ヤジ」。15歳の時に松下村塾に入る。松陰は「少年中稀覯の男子なり」「弥二は人物を以て勝る」と評価した。
文久2年に高杉晋作等と御楯組を結成し、盟約書に血判を押し攘夷活動に身を投じていく。
しかし文久3年の八月十八日の政変により長州藩は京都を追放。ヤジも山田市之允(顕義)と共に一行の中に加わっていった。ヤジは七卿の世話役として同行。
元治元年の蛤御門の戦いでは、ヤジは八幡隊の隊長として奮戦。しかしこの戦いは僅か一日で終わり、塾の先輩である久坂玄瑞や入江九一等が命を落とした。敗北後、ヤジは市之允と共に西本願寺に匿われ、幕府や新選組の創作を逃れるため剃髪し、僧侶の格好をして京都を脱出する。

帰国後、市之允や太田市之進等とともに御楯隊を結成し、書記となる。
元治元年に高杉晋作が決起を成功させ、藩論を討幕に統一させた。その為、長州は宿敵・薩摩との同盟を結ぶことを決定する。慶応元年(1866年)12月、弥二郎は桂小五郎に従って上京し、薩長同盟締結に奔走する。

戊辰戦争ではヤジは整武隊を率いて市之允等と共に北越に向かい、隊を指揮し市之允を助けながら戦った。
維新後は欧州に留学。帰国後は農政・山林事業を中心に殖産興業政策を進めた。
明治24年には第一次松方正義内閣の内装に就任するが、死者を出す激しい選挙干渉を行ったことを批判され辞任する。のちに国民協会を結成し、信用組合の普及に尽力を尽くした。
また東京の松陰神社の創建のため募金活動を行い、松陰の遺構の出版などにも力を入れ、師の志を残した。
明治32年、肺炎のため病死。享年57。


逸話
安政4年、生徒が増え狭くなった塾の増築を松陰や塾生で行っていたときのことである。
ヤジは屋根の上で作業をしていた。その時、松陰が下から投げた屋根土をヤジは受け損ない、土は松陰の顔に落下してしまった。ヤジや塾生たちは、当然松陰が怒鳴ると思っていた。しかし松陰は「こらヤジ!将来師の顔に泥をぬることはやめてくれよ」と笑いながら言い、塾生たちもみんな笑ったという。


尊攘堂
維新後、ヤジはかつて松陰が入江九一に送った手紙を発見した。そこには「京に大学をつくって欲しい」というものだった。ヤジは松陰の遺志を実現させるため、京都に土地を買い手紙の通り「尊攘堂」と名付け、尊皇攘夷に命を落とした志士たちを祀った。また志士たちの遺品や手紙、関係資料などを集め、一般の参拝などを認めた。現在、尊攘堂は京都大学内に移築され、史料等も京都大学付属図書館に収められている。
ヤジは京都の尊攘堂とは別に故郷長州の長府、現在の下関の桂弥市に、長門にも尊攘堂を建ててくれるように依頼した。そして昭和8年(1933年)10月20日、長い年月を経て功山寺の側に西の尊攘堂、現在の長府博物館が完成したのである。
彼は師の志を継ぐことを最期まで忘れることはなかったのである。



〈参考:『月刊松下村塾 vol10』 『吉田松陰と塾生たち』〉


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