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ここ最近、なぜか更新意欲が非常に高いです。
引越しの関係で片付けやら何やら、やることはそこそこあるのに。
この「吉田年麻呂史料より」シリーズが、自分で書いてても楽しいからかも。

…史料読みにくくないでしょうか?
文字を少し大きくしようかとも考えているのですが。
皆さんのご意見を聞かせていただけると喜びます。


さて第二回目。
今のところ主役の手紙が殆ど、というかゼロですが…
どうかもう少しお待ちください。








5.吉田松陰より 【安政4(1857)年5月】



  秀実字無逸説

 栄太郎年甫十三、始役江戸、会有墨夷変、深自奮励、欲学武技以有所○、其後謀辞家遠遊、事不諧矣、丙辰冬、謁余囚室、請受教焉、余試以韓退之符読書城南誌、栄太不屑曰、吾之為学、寧為是呼、又読孟子論百里奚以不諌為智賢、不悦曰、不諌不死、何以為智賢、余頗奇之、語以学之方、栄太○有契于内、悉廃武技、徒余夕読書焉、一日以名字問余、余以秀実字無逸応之、且曰、汝之為苗、匪○匪莠、吾已試之、不怠、則秀則実可許也、然秀也実也、誠不易矣、載転載○、維穫維積、其在無逸哉、抑吾聞、李唐有段大尉名秀実者、近時又有蒲生君蔵先生、亦名秀実、二子君、皆豪傑也、汝退読二子伝、其必知無逸之所以然矣


(『吉田松陰全集』三巻)



【解説より】

「丁巳幽室文稿」より。松陰が秀実の名と無逸の字を栄太郎に与えたさいのもの。これを得た栄太は最後の二子の伝を読まばの言により高山正之や蒲生秀実の伝等を写録し、松陰に示した。これを松陰は「両秀録」と名づけたとのこと。







6.冨永有隣あて 【安政4(1857)年閏5月29日】



松蔭先生御申被成候は数々可報事有之候得共、頃日至て繁閙に付不能取筆と、依て僕をして代筆せしむ。第一可報事は去年蝦夷国におゐて米初て生す。依てこれを幕府へ差出す。幕府之を天朝へ献す。
 天子これを聞召し給ひ、余り米を公卿達え賜しならん。本藩京都御留守居宍戸九郎兵衞太方にて少許得、殿様え献せしむ。君にもこれを拝食し給ひしとなむ、是北条瀬兵衞之話也。是則志士之血精、彼蒼に感応せし事もあるか。黙霖輩冥々中に功なしと云へからす。
此間之御書中△水野筑後守長崎奉行兼帯、其外御目附岩瀬伊賀守已下長崎御配下奉行十六日日宮市泊、△水野侯云々是は間違にて此度御勘定奉行
御目附廿日同所泊、御目附泊り候節佐波川々留にて両日宿せし処、此御方出張三田尻役人に申候は、拙者共只今より飛船をかり出立可被致と申候に付、役人申候は飛船は三艘の外無之候。
御馬乗せ苦しく思申候処、いや〔くの字点〕夫は御前方御不案内、向島にをいて大舩直府に致可申、此度は出格之義に候。国守様御丁寧之段は承知仕候。宜敷御礼頼入と申残し直様飛船に乗し向島さして漕出し申候。此度は奉行も目附も出格之義とか申候て、道中迚も本筋而已を通らず、或は山に登り或はあぜ道を通り、此地は何を産するや、如何成俗か杯具に間候て、矢立紙取出し付通り申候。夜は机を出し挑灯皆々何やら書申候。定て昼斯々にて聞候処の件々を控置と相見申候。又此度は少しもぐつる杯申事は決て無之由。ぐつる輩の宿は別に一軒有之と見へ候。宮市にても奉行より宿の亭主を呼び、其の家<ぐつる輩の泊る宿>には決て迷惑事も可有之、是を彼の宿亭主え遣し呉候へとて卵子五ツ紙に包み候て差出し候由やさしきことか、一笑。
「奉行目附長崎へ下るは何故か、聞糺之上可申上候。」(上欄、松陰筆)

<中略>

一、家兄前五月十六日より十日之内暇にて熊毛才判塩田村親姻の家へ参り申候。其節阿月へ過り秋良敦之助方へ参り色々快談有之候由。中にも去年浦氏御加増之節、百姓共迄酒を賜ひし処、百姓共皆『国の神様吾神様え、千代の玉もの我〔くの字点〕迄も、治れる世に千石召さば、異国の退治は幾万石ぞと』歌ひしとなん。案するに土民安そ能此歌を作らん。此作者は知るへきのみ。先年も阿月波戸築立之節、秋良か『神と君との恵みの阿月、風も和らき波静かなり、鶴も千年亀万歳の、浦は常磐の松と竹、そこついわねに岩居堅め、千代も八千代も此浦繁昌』と作りて歌〔は〕せしと申こと有之。其歌今に至るまて忘れす、喜ひさへあれは打寄り歌ふ由。彼平生南郁人の一癖にて楽を好み音曲を喜ひ、兎もすれは心にくきことする男子なり。
右松蔭先生の梧下にて承り候まゝ書き申候。
 
 後五月廿九日     栄太郎再拝
 冨永先生 玉梧下 


(山口県文書館蔵)



【解説より】

松陰の手紙を栄太郎が代筆したもの。原簡は紙三枚を袋綴じにしたもの。冨永有隣は明倫館で学び、天保五年には藩主世子小姓となるも失脚。野山獄で松陰を知り、安政四年に出獄し松下村塾で賓師となる。








7.桜井幸三郎 【安政4(1857)年8月3日】



小生儀、義卿隣家住居、且旧縁故有之甚其知遇を受け日夕幽居に立入其志を同し候処、此度出府仕候付、義卿より別稿一章相託し、折を以極密象山平先生へ達呉候様呉々相頼候。昨年久保清太郎<是も義卿及小生の隣居に御座候>在府之節、松代蟻川賢之助君に託し、北山安世子まて音耗を通候処、蟻川は帰国<藩人松島瑞益長崎にて一面、瑞益は小田村伊之助の兄なり。小田村は義卿の妹婿>北山は西遊と承候得は大に失力候。然処七月上旬頃、令兄純蔵君御事、弊藩御出被下、杉梅太郎宅にて久保清太郎・小田村伊之助杯御一会有之、其節僕在末座執事不及陳賊名遺憾奉存候。然とも令兄尊王攘夷之御素志は○に奉感銘候。其節承り候は松代北山氏へ貴君御滞学被為在候由。喜多山市西遊後は如何被為居候哉。若今以松代御滞に候はゝ別稿之義可然御都合も御座候わんと奉察候。扨又貴家恒川才八郎君と御隣居と申事令兄御話に御座候処、恒川君御事、義卿江戸にて知己と申候に付、此趣御商議被下候はゝ 忝奉存候。義卿近状近論、象山先生へ乞教度相含居候得共、松代藩之事情難相知差扣居申候。令兄へ託し近文四、五篇差出候。令兄御帰国後之上は、先生へ達し候様可致との御約束に御座候。先は右之条件御託申上度如是に御座候。不尽。

 八月三日於萩府書。  吉田秀実再拝
○○御藩
 桜井幸三郎様 人々御中


(宮内庁書陵部蔵)



【解説より】

萩から松代藩士の桜井にあてたもの。これは松陰(義卿)が謹慎中につき藩外とは文通できないため、栄太郎(秀実)の名で書いたものではないかとのこと。松陰の密航未遂事件に連座して、松代で謹慎する佐久間象山に松陰の文稿を届けてくれるように依頼したもの。








8.吉田松陰より 【安政4(1857)年8月12日】



若有會子之心、即竜此之身首分裂、与啓手足一般、不然、則老死○下、亦与刀鋸憀辱何異
 今度三生之誓文預御示致感心候。仍之前書陳明卿之語書附候時を以三生へ御申伝可然存候也

 安政四年八月十二日  二十一回生
 吉田無逸 足下


 (『吉田松陰全集』五巻)



【解説より】

三生とは栄太郎が松下村塾に連れてきた音三郎・市之進・溝三郎。








以上四点でした。
相変わらず栄太郎の書簡が少ない…!!
もう2、3回は栄太郎の出番が…ありません…
そのかわりあの人が登場するかも…!?

では次回をお楽しみに。


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