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2013年大河ドラマ「八重の桜」、第二話を見逃しました…
再放送も見逃しました…
長州人がまだそんなに登場していないのが唯一の救いです。
松陰先生ごめんなさい。

木戸さんが退場するくらいまでは頑張って見ようと思います。
木戸さん大好き親衛隊が出てくるのかが楽しみです。
出ないだろうけれど、期待してしまうのがファンというもので。

とりあえず目下の楽しみは玄瑞の登場。
……玄瑞が出すなら高杉さんとか栄太も出して欲しいっす。
期待禁物油断大敵の心構えで見ていきたいと思います。



はい、といういことで新シリーズ始めます。
いろんなことやりかけておいて、また新しくやんのか、という声は置いといて。
『吉田年麻呂史料』(編:一坂太郎・道迫真吾 マツノ書店 2012年3月15日)から、何のひねりもない題名の通り史料を紹介していきたいと思います。
昨年マツノ書店さんから330部限定で発売されまして、自分のは第238番です。
卒論を書くのに大変重宝しました。
栄太の貴重な史料が多く掲載されております。
皆さんにもぜひ紹介したいと思います。

とりあえず、1ページ目から順番に行う予定です。
全文載せるのはさすがに無理なので一部省略という形で掲載し、要望があれば全文を載せるという形をとりたいと思っております。
最初のうち、といっても当分のあいだは栄太の往復文書です。

さて、一体いつまで続くか分かりませんが、頑張って続けていきたいと思います。

では記念すべき一回目。
続きからどうぞ。


1.大野信吾あて 【嘉永6(1853)年6月24日】 ※父清内と連名

 
 一筆啓上仕候。甚暑之節に御座候処、先以貴所様・御満家中様御安全に可被成御座珍重の至に奉存候。於為元親子共無意義相勤候間、乍憚貴意易思召可被遣候。且又当夏は殊外厚さ強く難凌、御国元も同様に御座候哉と奉存候。猶又江戸表は異国船渡〔破損〕御大名様方へ御人数被差出候様御沙汰相成、…<省略>…其外手道具、足軽・弓組・鉄砲組・十三組、無柄白木綿にて後八巻、袖印長州何之何某と書付陣立同様に御座候。出入共に殿様御式台下の板之間迄御出立、御之、御目見、夫より上の板之間え御床几え御召、…<省略>…先は暑中見舞旁以愚礼如斯御座候。恐惶謹言。

 六月廿四日  吉田清内 同栄太郎

尚々幾重も(くの時点)御気体可被成御厭、乍憚御家内中様え宜敷御伝声奉希候。以上。

 追啓

留守中何かと御世話に相成千万難有、家内より御礼状差上呉候申〔破損〕然へく候様、夏書状差出不申候故、宜敷御〔破損〕御頼申上候。以上。

 大野信吉様 尊下



【解説より】

当時13歳の栄太郎は自ら希望し、藩主の参勤交代に加わり江戸に向かった。6月3日にペリー率いる黒船四隻が浦賀沖に来航し、幕府に和親通商を求める。7日から13日まで、長州藩は幕府から大森海岸の警備を任されたため、兵五百余りを動員し、大砲三門、小銃百挺余りを備えて警備に当たった。
そうした慌ただしい動きを、萩松本村の隣家の当主に知らせるもの。
筆跡は清内のものだろうとのこと。






2.同上 【嘉永6(1853)年12月8日】 ※父清内と連名


 一筆啓上仕候。甚寒之節に御座候得共、先以尊君様・御家内中様御壮健可被成御座珍重之御義に奉存候。於為元親子共に無異儀相勤候間、貴意易思召可被遣候。於御国許都合御静謐之御様子、江戸も御同様に御座候得共、此内より浦賀御引請に相成、猶又将軍宣下、且若殿様御登に付ては御住居え御普請有之、御屋敷内も殊外御閙敷何かと混雑仕候。且又月迫に相成、嘸々御用繁に御座候はんと奉存候先は寒中御見舞旁捧愚礼、如是御座候。恐惶謹言。

 十二月八日 吉田清内 仝栄太郎

尚々幾重も御気分御厭専一之御事に奉存候。猶又留守共は大きにお世話相成、乍此上宜敷御頼仕候。乍憚御家内中様え宜敷御伝声奉希上候。以上

 大野信吉様 尊下



【解説より】

〔1〕と同じく大野に近況を知らせたもの。筆跡も同じく清内。
将軍宣下とはこの年6月22日、将軍徳川家慶が死去したため、11月23日に家定が将軍職に就いたこと。
また若殿様御登とは藩主養子が翌年2月、元服のために江戸にやってくること。3月9日、家定から偏諱をもらい、定広と改め従四位下に叙し、長門守に任ぜられ世子として公認された。







3.同上 【安政2(1855)年10月15日】 ※父清内と連名


 一筆啓上仕候。寒之節に御座候得共、先以貴家御揃御勇可被成御座珍重奉存候。於為元私共父子無異罷在候間、此段乍憚御休意被思召可被下候。猶又栄太郎其御地出足仕候節無上之御餞別頂戴被仰付、難有仕合に奉存候。右御礼為可申上如斯御座候。恐惶謹言。

 十月十五日  吉田清内 同栄太郎
 
尚々御気色御保護専一に奉存候。乍憚尊御親。御家内中様え宜敷被仰付上被した候様奉頼候。以上。

 大野新吉様  人々御中
   (ママ)


【解説より】

安政元(1854)年、江戸からはぎに帰った栄太郎は好く2年9月、江戸番手御昼水仁として再び江戸へ向かった。この時、旅立つ栄太郎に大野が餞別を与えており、その礼を兼ねた近況報告。
筆跡はやはり清内であろうとのこと。







4.大野信吉・音三郎あて 【安政3(1856)年3月5日】 ※父清内と連名


 一筆啓上仕候。春暖之節に御座候得共、先以尊君様・御満家中様御安泰可被成御座珍重至極に奉存候。次に親子とも無別条相勤候間、此段御安意被思召可被下候。猶又留守共は大き御世話に相成、乍此上御頼仕候。且又栄太郎儀御供にて罷帰り候間、何分宜敷様御頼申上候。先は御見舞旁如斯に御座候。恐惶謹言。

 三月五日  吉田清内 仝栄太郎

尚々幾重も御気体御厭専一之御事に奉存候。乍憚御満家中様へ宜敷御伝言御頼申上候。以上。

 大野信吉様 尊下

 大野音三郎様 尊下



【解説より】

安政3年2月、栄太郎は藩主世子の御供小使として江戸から萩に帰る。江戸から旅立つ栄太郎を見送った清内が、萩松本村の大野信吉とその子音三郎にあてた書簡。
萩に帰った栄太郎は11月、吉田松陰が主催する松下村塾に入塾することになる。音三郎はのち、市之進・溝三郎と共に栄太郎の勧めで松陰の教えを受ける。






以上、大野信吉あて4点の書簡でした。
今回は栄太郎というより、父親の清内が筆を執っています。なので栄太自身の気持ちやどのような文体を書くのかは分かりませんが、栄太や長州藩の動向がちょいちょい分かる史料です。
〔1〕以外は短いので全文掲載いたしました。
全文掲載希望の方がいらっしゃいましたら、コメント欄からで構いませんので

 1.大野信吾あて 【嘉永6(1853)年6月24日】

というようにお手数ですが、番号・宛名(または送り主)・日付をお願いします。
コピーして貼っ付けちゃって下さい。
 
では次回。




<出典>

一坂太郎・道迫真吾 『吉田年麻呂史料』 マツノ書店 2012年

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