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2009.07.20 山田顕義
オークションで古川薫先生の小説「高杉晋作 わが風雲の詩」と「歴史群像シリーズ 高杉晋作」を落札しました。
どちらも新刊書店では扱っておらず、小説の方にいたっては絶版状態で諦めていたのですが、偶然発見したので飛びつきました。どちらも前々から欲しかったのでかなりテンションがあがってます。
明後日くらいには届くと思うので、また感想を書きたいと思ってます。





山田顕義

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天保15年〈弘化元年〉10月9日(1844年11月18日)~明治25年(1892年)11月11日
長門国萩中ノ倉生まれ。藩士山田七兵衛顕行の長男。
通称:市之允  号:空斎・狂痴   諱:顕義
享年49。

生涯
通称“市ィ”。上士の長男に生まれ、藩校明倫館に通っていたが、叔父の薦めにより14歳で松下村塾に入る。しかし、だんだんと過激になっていく松陰から市之允は距離を置き始めた。だが、市之允は松陰を尊敬していた。松陰が処刑されてから100日後に、高杉晋作や久坂玄瑞ら塾生が集い行った100日祭に市之允は出席。一周忌には1人墓へと参拝し、墓前に一句の長い漢詩を捧げ、詩の志を継ぐことを決意し攘夷活動へ加わる。文久2年に高杉が作った御楯組に入り、攘夷血盟にも加盟。
文久3年の下関戦争にも玄瑞等と共に奮戦。その後、再び京に上り志士として活動するが、長州藩の動きに不満をもった会津・薩摩による月18日の政変で、長州藩は京都から追放された。市之允も皆と共に帰国することになった。

帰国した市之允は遊撃隊の御用掛となる。翌年の元治元年、遊撃隊総督の来島又兵衛は、京都進発を主張。来島を説得するため、高杉が萩から派遣されたが来島は聞き入れなかった。それに対し、高杉は“京の様子を見てくるまで待て”と、御用掛の市之允を連れて脱藩してしまう。市之允は昔の遊学期間がまだ残っていたため、お咎めなしであったが、高杉は国許で投獄されてしまった。
そして元治元年7月19日、禁門の変が勃発。市之允も参戦するも長州藩は敗北。朝敵の汚名を被った。市之允は同門の品川弥二郎と共に西本願寺に匿われ、僧侶の格好をして長州まで逃げ延びた。
帰国後、生き残ったもの達で御楯隊を結成し、市之允は軍艦に就いた。

慶応2年の第二次長州征伐では、大島奪回のため高杉晋作率いる丙寅丸に乗船。市之允は高杉から砲隊長に任命され、幕府軍を奇襲し撤退に追い込んだ。その後は芸州口で御楯隊を率いて参戦した。
戊辰戦争では参謀を主に務め、薩摩の黒田清隆と共に箱根五稜郭を攻め落とすことに成功した。

維新後は岩倉使節団に随行し、欧米各地を視察。帰国後、西南戦争の鎮圧を行うなど軍人としてその才能を見せるが、軍が力を持ちすぎることを危険視し「兵は凶器なり」という言葉を残し、明治16年には司法の道へ入り法典の編纂に力を注いだ。その功績から「小ナポレオン」と言われるほどであった。また教育にも力を入れ、現在の日本大学と國學院大學の前進となる学校も設立した。

明治25年、市之允は故郷の山口県萩に戻り、師である松陰や動乱に命を落とした塾生たちの墓参りを行った。東京に戻る前、生野の変に倒れた従兄弟・河上弥市の墓参りもするため、兵庫県の生野を訪れた。そのついでに生野銀山を視察するが、急に倒れそのまま息を引き取った。国葬では道が多くの人で溢れかえり、「小ナポレオン」の死を惜しんだという。

用兵の天才
市之允は長州藩一の軍略家・大村益次郎に弟子入りし、その才能を開花させた。高杉晋作が亡くなる時、「後継者は誰か」と聞かれ、晋作は「大村益次郎」と答えた。しかし、大村はもともと町医者だったため不満に思った連中が「その次は」と、聞くと晋作は「山田市之允」と答えたという。長州の天才・高杉晋作も市之允の才能を早くから見抜いていた。
また、箱根五稜郭戦争の時、市之允は陸海軍参謀を任された。しかし、当時25歳だった市之允を起用することに西郷隆盛は不安の募らせ、反対した。だが大村に「市之允は自分より実戦が上手であるから問題はない」といわれ、引き下がった。その後見事に箱根を攻め落とし、西郷も「あの小童、用兵の天才でごわす」と言ったという。その見事な用兵から「用兵の妙・神の如し」と言われた。

実は童顔
市之允はよくひげの生えている明治の40代頃の写真が登場している。しかし、彼はかなりの童顔である。戊辰戦争の頃の写真が残っているが、とても20代後半には見えない顔である。また、西南戦争での司令官集合写真にも市之允は写っている。この時すでに33歳。しかし、やはり30代にはみえない顔である。背も低く、その上童顔であったためかなり幼く見られていたようである。
稚児制があった薩摩の西郷隆盛は、市之允を見た時「よか稚児」と言ったらしい・・・


あとがき
はい、またグダグダになりましてすいません・・・
市ィはかなり好きな塾生です。高杉さんと同じ塾内では数少ない上士であり、それでも身分意識はなかったようです。高杉さんの脱藩に巻き込まれたかわいそうな人。でも高杉さんと市ィの上士コンビが好きです。高杉さんは彼を後継にも指名していますし。この時絶対あいつは嫉妬したに違いない…!
あいつとはもちろん山県のことです。奇兵隊軍艦であったにもかかわらず、憧れの高杉さんから後継に指名してもらえなかったのですから。身分の差もあって、ガタは市ィのこと嫌っているイメージがあります。
実際、維新後も中は良くなかったみたいですし。権力ではガタが勝ってますが、国民からの人気も圧倒的に市ィが勝ってます。書きましたが、市ィの国葬には大勢の市民が参列したそうですが、ガタはというと、国葬にも関わらず軍の関係者と彼と親しかった者しかいない、かなり寂しいものだったようです・・・

市ィが主人公でお勧めの小説は、ブクログにもありますが「五稜郭を落とした男」。
読む価値ありです。


〈参考文献:月刊松下村塾vol.10・吉田松陰と塾生たち〉
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