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2010.09.14 周布政之助

ようやっとできました。
時間かけた割には大したことありません…

桂さんを抜いて上司にしたいNo.1のお人です。





周布政之助

2周布政之助 1周布政之助

文政6年3月23日(1823年5月3日)~元治元年9月26日(1864年10月26日)
長門国萩城下生まれ 藩士周布吉左衛門の五男
通称:政之助  字:公輔  号:麻田 観山など  諱:兼翼  変名:麻田公輔 松岡敬助
享年41


生涯
文政6年、藩士・周布吉左衛門の五男として萩城下に生まれる。
父親と兄が相次いで亡くなったため生後半年で家督を相続した。
嘉永6年(1853)から政務座筆頭として、政敵の椋梨藤太とともに長州藩の政治をリードしていく。
文久元年(1861)長井雅樂の「航海遠略策」に賛成するも、桂小五郎・久坂玄瑞らに説得され、反対派に回る。
同年11月、泥酔状態で前土佐藩主・山内容堂を誹謗したため謹慎処分となる。
その後、麻田公輔と名を変え藩政に戻る。
元治元年7月19日、京都で蛤御門の変が勃発し、長州藩は長敵と為る。同年8月には、英仏蘭米四国連合艦隊による報復攻撃が行われた。これを機に藩内の保守派が政権を握り、攘夷派の粛清を始める。
当時周布は藩政から逼塞していたが、状況打破のため岩国の吉川氏を頼るが失敗に終わる。
そして井上聞多が袖解橋で保守派に襲撃された同日の元治元年9月26日、蛤御門の変・下関戦争の敗戦などの責任を負い、山口にて自害した。


周布と松下村塾
周布は数少ない吉田松陰の理解者の一人であった。
松陰亡き後も高杉晋作や久坂玄瑞をはじめとする塾生たちに理解を示し、その活動を支えた。
高杉たちも周布を信頼し、何かあれば周布を頼った。
彼らが思いっきり志士として活動できた背景には、周布の支えがあったのである。


無類の酒好き
周布は無類の酒好きであった。とにかく好きでいつも飲んでいた。
余りに飲むので桂小五郎からたしなめられることも少なくはなかった。
そしてその酒で失敗することもあった。
文久元年(1861)11月、泥酔状態で前土佐藩主・山内容堂を「容堂公は尊王攘夷をおちゃらかしなさる」(諸説有り)と誹謗し、謹慎と為る。また元治元年(1864)6月、野山獄に入獄中の高杉晋作を訪ね、酔って剣を抜いて乱入したため、藩から逼塞を命じられた。ただ、この元治元年の行為は、周布はわざと行ったという見方もある。

桂小五郎戯画
桂小五郎戯画

桂が周布の酒をたしなめるために書いたもの。
杯の中には「麻田先生命」、下には「飲む勿れ 松菊」と記してある。



後書き

こうして見ると、周布さんも亡くなったの41歳って…若いですよね。
ぱっと見はもっと年取ってそうなイメージあるんですが。
周布さんですが、私の中で桂さんを押さえて上司にしたい人No.1です。
包容力とか先見性とか、もちろん桂さんもすごいんですが、この周布さんは凄いと思います。
周布さんの言葉に「攘排也 排開也 攘夷而後国可開」というのがあるんです。これは周布さんの攘夷論でして「攘は排なり、排は開なり、攘夷而して後国開くべし」と読み下します。
詳細は省きますが、ここでいう「攘夷」とは「条約破棄」、「開国」は「平等な条約」を意味しています。
つまり「不平等条約を破棄(破約攘夷)して、真の開国(平等な条約)をすべきである」と言っています。
最初に之を読んだ時、何ていうかビックリしましたね。こんな考えがあるんだって言う。
もちろん周布さんだけじゃなくて似たような考えを持った人はいたでしょうが。

話がずれちゃいましたけど、周布さんみたいな人が上司だったら仕事のやりがいありそうです。
きちんと部下に理解を示し、困った時にはフォローしてくれる。
高杉さんだけじゃなく桂さんも周布さんに助けられてますしね。
ただ、お酒飲むとヤバいですけど(笑)そこだけですかね。あとは完璧だと思います、上司として。
桂さんが上司の場合は、ものすごい愚痴を聞かされそう(笑)
実際に被害にあってる人(O久保氏)もおられますし…ね。

あとがき長くてすいません…


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