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まだ書き足りませんが、一応終わりです。
高杉晋作 ~参~

〈鼻輪も通さぬ放れ牛〉
村塾の同窓、吉田稔麿がつけた晋作のあだ名。その名にふさわしく(?)彼には多くの逸話が残っている。あくまでも逸話なので、どこまでが本当なのかは分からないが、どれも晋作らしいものなので紹介したい。

壱.土下座事件
まだ前髪がついていた頃の正月のこと。晋作は門前で凧あげをしていた。その凧が落ちたとき、高杉家に年賀に来ていた武士が誤って凧を踏んで壊してしまった。その男はそのまま帰ろうとしたが、それを見た晋作が「なぜあやまらないのですか」と詰め寄った。それでも男はにやにやしながら立ち去ろうとしたので、晋作は追いかけて「土下座せよ!三つ指をついて謝れ!!」と激怒した。男は高杉家とほぼ同格の士分である。そのあまりの雑言に男は晋作の無礼をたしなめようとした。晋作はさらに激怒し、ついに「謝らないなら泥をかけていやる!」と叫び、泥をつかんでコブシをふりあげた。男の羽織は藩主から拝領したもので、毛利家の紋所が入っている。拝領品を汚せばどのような処罰を受けるかわからない。男は「すまなかった」と謝ったが、それでも晋作は許さず、コブシを振り上げたまま土下座せよ、という。そこで男は慌てて土下座したのである。

弐.八百政邸放火事件
晋作は10歳の時天然痘にかかり、顔にひどいあばたが残った。それにより悪ガキから「あずき餅、あずき餅の青びょうたん」とあだ名をつけられてしまった。ある日のこと、八百政のせがれ孝助という悪童が晋作に「あずき餅」といってからかい始めた。はじめは我慢していた晋作だったが、しだいに我慢がきかなくなりついにきれ、とっくみあいになった。とおりかかった大人たちに引き離され収拾はついたが、晋作は「父にこのことは言わないでくれ」と言って帰って行った。大人たちが不思議がっていると、すぐに晋作が戻ってきて、手に紙くずを抱え「八百政邸」へ一目散にかけていった。誰もいない八百屋の中に入っていき、帳場横の畳の上に紙くずを広げ、火打ち石で火を放った。それから道へと出て火の広がる様子を眺めていた。奥にいた八百政が気づき、近所の人間も駆けつけたため、ぼや騒ぎですんだ。「だれが火をつけた」などと騒いでいる大人たちに向かって、晋作は「火をつけたのは自分である」と言い放った。怒りが収まらない八百屋の親父は高杉家に怒鳴り込む。話を聞いて驚いた晋作の父・小忠太は晋作に理由を聞いた。すると「そこにいる八百政の息子孝助は自分にいわれのない無礼を働きました。それに腕力をかさにきて弱い子供をいじめる嫌われ者です。それを知りながら放置している親もかねてから悪いと思っていたので、火をつけて成敗してやりました。」小忠太が「火付けは大罪である。覚悟はできているのか。」と訪ねると、晋作は「自分もすでに元服を済ませている身。父上には関わりのないこと。八百政親子が藩に訴えて、磔でも切腹でも覚悟はしています。」これには小忠太も八百政も呆然とした。結局なんのおとがめもなかった。

参.野次飛ばし
文久3年月、将軍家茂が上洛し天皇の加茂神社行幸に追従することになった。この行列は多くの見物人がいたという。晋作も見物していて、将軍が通りかかったとき「よっ!征夷大将軍!!」と声をかけたという。しかし、将軍の家来は誰一人飛び出して晋作を捕まえようとはしなかった。これは天皇の行列であり、将軍は家来として参加しているのであり、勝手に飛び出して列を乱すことはできなかったのである。晋作はこのことを理解していたともいう。当時同行していたという山県有朋は後年、「あのとき何か声をかけていたが、何と言ったかは分からなかった」と語っている。彼の証言からして、内容はともかくも何か声をかけたというのは事実であろう。

四.三枚橋事件
文久3年正月5日、晋作は師・松陰の遺骨を数人の同志と改葬した。それが今の東京世田谷にある松陰神社である。が、この時にも晋作は前代未聞の事件を起こした。世田谷に向かう途中の上野に、俗に三枚橋といわれる三本の橋がある。その真ん中の橋は将軍しか渡れないものであった。しかし晋作は堂々とその橋を渡り始めた。驚いた番士は当然止めようとしたがとりあえず、「それは公方様への献上の品でございますか。」と質問した。
以下、司馬遼太郎「世に棲む日日」より引用
『晋作はしばらく番士をにらみすえていたが、やがて、「死骨である」と、おごそかにいった。これには番士はとびあがるほどにおどろき、それでは葬式か、葬式などというような不浄の列はまして通れぬ。押し通れば天下の大罪を犯すことに相成るぞ、さがれ、さがれぬか、と喚くと、晋作は槍をとりなおし、「勤王の志士松陰吉田虎次郎の殉国の霊がまかり通るのだ」と、いった。勤王の志士という耳慣れぬ言葉が使われたのは、このときがはじめてかもしれない。が、番士の記憶にある吉田寅次郎の名は、大法を犯して刑戮された極悪人という印象であった。「ざ、罪人の死骨など……」と、絶句した。晋作は、わざと黙っている。見物衆がむらがってきた。それが数百人にもなったときを見はからい、晋作は「橋番っ。さがれ、勅命である」と、これまた勅命という耳慣れぬ権威をもちだしてきた。京の天子の命によって橋を渡るのだ、という。「なにが勅命」と、番士も応じた。罪人の死骨をはこぶのがなぜ勅命が、わけを聞こう、といったとき晋作はさらに声を大きくして、「わけは家茂にきけ」と、槍をもって番士を追いつつついに渡りきってしまった。将軍の名が、白昼呼び捨てで呼ばれたのも、これが最初かもしれない。』

五.関所破り
三枚橋事件に驚いた国許は、晋作に帰国命令を出して呼び戻すことにした。しかし、その途中でもまた晋作は事件を起こすのである。以下、司馬遼太郎・『世に棲む日日』より引用
『江戸を離れ、箱根の関所を通過するとき、晋作はまた事件をおこした。宿駕籠で乗り打ちをするという未曾有の事件をおこしてしまったのである。関所役人たちはさわぎ、駆けわめきつつとりおさえようとしたが、晋作は走る駕籠のなかで太刀の鯉口を切り、大声で、 「ここは天下の大道ぞ、幕法こそ私法ぞ、私法をかまえて人の往来を制する無法があってよいか」と、雲助をはげましはげまししてついに関所破りをしてしまった。江戸300年のあいだ白昼公然と関所を破ったのは、この男だけである。』

六.下関戦争講和
下関戦争の講和において、晋作は家老の子息“宍戸刑馬”と偽名を使い、講和の使者として出席したときのことである。晋作は直垂に陣羽織、立烏帽子という姿で出席した。
連合国側は長州に賠償金300万ドルを要求した。しかし晋作は「攘夷は朝廷が幕府に命令し、さらに幕府が我々に命令したのである。よって長州藩に支払ういわれはない。」といって賠償金を幕府に押しつけてしまった。
そして連合国側は海峡の端にある彦島を租借したい、といってきた。晋作には租借の意味は分からなかった。しかし、西欧に支配されている上海の現状を見てきた晋作は、直感的に租借とは上海のようにされることでは、見抜いた。そしていきなり「そもそも日本国なるは」と古事記・日本書紀を朗々と語り出したのだ。これには通訳として出席していた伊藤俊輔も、また連合国側の通訳アーネスト・サトーも、そして連合国側首脳部も呆然とするしかなかった。結局延々と喋り続けたため、連合国側がうんざりとして彦島租借を取り下げた。
アーネスト・サトーは後年晋作のことを「負けたくせに傲然として怒っていて、まるで魔王のようだった」と、語っている。この時、晋作が彦島租借を了承していたら日本の歴史は大きく変わっていた、と言われる。

七.軍艦に着流し
第二次長州征伐(四境戦争)の時のことである。幕府軍に占領された大島を奪回するため、晋作は藩の軍艦に乗り込んだ。皆が奇兵隊の隊服を着ているなか、晋作だけは着流しに扇子一本で現れた。それを見た田中顕助(土佐浪人だが晋作に惚れ込み弟子入りした)が、「そのなりで」と、声をかけると晋作は「幕府の軍艦が何隻こようと、奴らは鼠賊である。この扇子一本で十分さ」と答えたという。

〈引用、参考文献:古川薫『わが風雲の詩』、司馬遼太郎『世に棲む日日』〉


あとがき
大変長くなりました。まだまだ書きたいことはあるのですが、とりあえずここで終了します。
またおいおい書いていきたいと思っております。
上記に述べたもので、信憑性が高いのは証人のいる参と六であると思います。壱もそれなりに。
軍艦に着流しで登場する粋な高杉さん…もう大好きです
他のものは確たる資料はなく、小説に記述されているものなので本当かどうかは分かりません。
でも私は信じております。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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