上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2つ目です。
相変わらずグダグダの長文です。偏見も入ってます。


高杉晋作 ~弐~

<生涯の師・松陰>
吉田松陰という人間と出会わなければ、後世に名を残す“高杉晋作”と言う人物はいなかった。と、書いている文献は多い。確かに松陰との出会いが晋作に大きな影響を与えた。

「高杉は自分の詩文集を差し出した。それが、新しい学問の師匠につくときのしきたりであった。松陰はその冊子に顔を伏せ、熱心に読んだ。・・・(中略)・・・やがて顔をあげ、最初に言った言葉は高杉が終生わすれられぬところであった。『久坂くんのほうが、すぐれています』と、いうのである。高杉は露骨に不服従の色をうかべた。(おもったとおりだ。)と、松陰は思った。人を見る目が異常にすぐれている松陰は、この若者が、裏へ回ってここへ入ってきた最初から、尋常でない男がやってきたという感じがした。ふてぶてしいというわけではないが、渾身に持っている異常なものを、ところどころ破れてはいても礼儀作法というお仕着せ衣装で包んでいる。それも、やっと包んでいる。―奇士が、二人になった。と、松陰は思った。・・・(中略)・・・しかし松陰は、高杉のような自負の強い男は一度その『頑質』を傷つけて破らねばならぬとおもった。文集を見ると、明倫館ではなるほど秀才かもしれないが、学問や素養はまだ当人が気負っているほどには至らず、たしかに玄瑞に劣る。むしろ玄瑞に対する競争心をあおると、かならず他日、非常の男子になるとおもった。」 〈司馬遼太郎・『世に棲む日日(二)』〉

この松陰の企み(?)は見事成功し、晋作は玄瑞をライバルとして学問に励みだした。父親や祖父が松陰の下へ通うのを嫌ったため、晋作は夜遅くにこっそりと家を抜け出し、毎日30分の道のりを通った。晋作の学問は進み、松陰は「識見気魄、他人に及ぶなし。人の駕御(さしず)を受けず、高等の人物なり。」と晋作を高く評価し、また議論するときにも晋作の意見を参考にするようになったのである。

ある時晋作は江戸伝馬町の獄にいる松陰に「男子の死」について質問した。それに対し松陰は「死んで世の中のためになるならいつ死んでも良いが、将来大きな事を成し遂げる可能性があるならいつまでも生き延びよ。だから生死は度外視して、何のために生きるかを考えることが大切なのである」と返答をした。この松陰の「死生観」が、後の晋作の生き方に大きな影響を及ぼしている。

晋作と四天王
久坂玄瑞
幼馴染みであり、良きライバル。また親友でもある。村塾の双璧と並び称され、玄瑞は「晋作の識(判断力)に自分はとうてい及ばない」といい、また晋作も「玄瑞の才には及ばない」とお互いを認め合っている。お互いなくてはならない唯一無二の存在であった。松陰もまた晋作に「天下に英才は多いが、玄瑞だけは失ってはならない」と言うほどであった。禁門の変が起こったとき、晋作は獄中にいた。晋作は玄瑞が心配でたまらなかったようであり、松陰の兄へ宛てた手紙に「京都での戦はどうなったのでしょうか。毎日玄瑞を夢に見ます。噂で玄瑞は死んだと聴きますが、ほんとうはどうなのでしょうか。」と書いている。

吉田稔麿
晋作に「鼻輪を通さぬ放れ牛」とのあだ名をつけた張本人。二人の直接の手紙はほとんど残っていないようで、どれほど親しかったのかはわからない。けれど晋作は玄瑞に宛てた手紙で、「栄太はどうしていますか」と心配しているし、栄太が江戸へ行く際にも晋作は彼に送序文を書き与えている。また松陰も晋作への手紙で栄太のことを相談している。また栄太も晋作が創った奇兵隊にいち早く参加していることから、それなりに友好関係にあったのだろう。

入江九一
晋作が恐れた唯一の人物(笑)。九一のところでも述べたが、松陰以外で暴れる晋作を止めることができたある意味最凶の男。晋作は苦手だったようであるが、それでも「まともに論議できるのは九一だけ」と言っている。誰も賛成してくれなかった計画に塾生では九一だけは血盟したり、奇兵隊に参加し幹部として晋作を手助けをしたりと、九一にとって晋作は手のかかる弟のようなものだったのかもしれない。そんな九一を晋作も深く信頼していたようである。


どうも収まりきらないのでここでいったん切ります。
しつこくてすいません・・・
関連記事
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://sblog410.blog72.fc2.com/tb.php/23-a6a95253
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。