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2010.05.29 名前は大事に
授業中ちょこちょこまとめていたネタ(?)です。

当たり前ですが、みなさんお名前は一つしかありませんよね?
名字が変わることはあっても、名が変わることなんてありません。
しかし昔は違います。
幼名から諱まで。さらに変名などたくさんの名前を持っています。
そこで今回は高杉さんの名前の歴史(?)についてまとめてみました。






通称:晋作  諱:春風  字:暢夫  号:東行

いみな
【諱】
諱とは本名のこと。主に死後に使う名であり、生前に使うのは余り縁起が良くないと考えられていた。
そこでこの世で使う名前が必要となり、その名前が通称である。
「春風」 
高杉家では始祖である高杉小四郎が「春時」と名乗って以来、代々の当主の諱に「春」を入れるようになった。
祖父・又兵衛は「春豊」、父・小忠太は「春樹」である。
この習慣(?)に習い晋作の諱は「春風」と名付けられた。


【通称】
前述で述べたように、諱の代わりに使用する名前である。
高杉晋作の通称は主なものとして4つ存在する。
「晋作」 
使用期間:天保10年8月20日(1839年9月27日)~文久3(1863)年11月
一般的に知られている高杉晋作の「晋作」である。
この「晋作」とはもともと父・小忠太が文政11(1828)年から天保5(1834)年まで使用していたものである。
小忠太は自分の使っていた通称を天保10年に生まれた長男につけた。
晋作は約24年間この通称を使用した。

「東一」
使用期間:文久3(1863)年11月~元治元(1864)年3月
文久3年11月、奇兵隊結成から約半年後に藩主から「東一」という通称を与えられて改名した。
改名にはきちんとした理由がある。その理由を晋作は両親にあてた手紙で述べている。
<改名の背景>
10月30日 両親宛て書簡
「追々前田(孫右衛門)其外へ相談つかまつり候処、改姓名にても宜敷と申しおり候。実は馬関に幕府船一条に付、私姓名も随分幕吏の耳に入り居り候事に付、京摂の間も追々探索人評判つかまつる位の事にござ候」
文久3年5月10日に実行した外国船砲撃等を糾問すべく、同年7月、馬関に派遣された幕吏との間にトラブルが生じた。8月には激徒による幕吏暗殺が起こってしまう。このため関係者の一人であった晋作の名が幕府方からマークされるようになった。その為改名が必要になったのである。

「和助」
使用期間:元治元(1864)年5月25日~慶応元(1865)年9月29日
元治元年、京都進発を唱える来島又兵衛率いる遊撃軍を説得中だった晋作は、君命に逆らい京・大阪方面へ突如出奔してしまう。藩はこれを脱藩とみなし、萩に帰った晋作を3月29日野山獄に投じた。政務座という要職から一転し罪人となってしまう。その為、拝領品のひとつである「東一」という名も没収されてしまった。
元治元年5月25日、獄中から晋作は杉梅太郎(松陰の実兄)に宛てた手紙に「和助」と署名。
以後「和助」が通称となる。

「谷潜蔵」
使用期間:慶応元(1865)年9月29日~慶応3(1867)年4月14日
慶応元年9月29日、藩は「高杉和助」を「谷潜蔵」と改名するよう命じる。幕府の追求から逃れるためである。このため晋作は高杉家の人間ではなくなり、谷家当主となった。そして晋作は「谷潜蔵春風」の名前で慶応3年4月14日、この世を去った。


【号】
本名・通称・字のほかにつけるペンネームみたいなもの。
「楠樹」
万延(1860)元年8月から10月にかけて晋作は北関東から信濃・北陸を巡る「試撃行」と名付けた遊暦の旅を行った。その旅に携帯したB6判ほどの「試撃行日譜」と題する日記帳の裏表紙には号を模索した形跡がある。
「新水、萩里、堤、青江顔山、片水、菊街、菊、楠、陰門、呉門、楠陰、楠陰生、萩里生、呉門生、柳陰、楠樹生」色々とあるが、最終的には「楠樹」に決まった。この「楠樹」とは南朝の忠臣・楠木正成からきている。以後、しばらく晋作の手紙や詩には「楠樹小史」「楠樹生」とか署名がみられる。

「東行」
楠樹の次に晋作が使った号が、最も知られている「東行」である。長州藩の京都周旋に反対した晋作は、文久3年3月15日、京都で10年の暇を願い出て許可され、剃髪し「東行」と号した。
「西へ行く人を慕ひて東行く心の底ぞ神や知るらむ」はこの時の作である。
「東行」は本人も最も気にいった号であったようで、以後の手紙などに頻繁に使っている。「東行狂生」を「東狂」と略したものもある。また東行の前に「西海一狂生」「東洋一狂生」などを付けるケースもみられる。

「些々(ささ)」
この「些々」とは晋作が最後に使ったものである。「些々」は竹の笹に通じる。慶応3年1月17日、下関の病床から萩の父親に送った手紙には、絵を学び始め竹ばかり描いていることが述べられている。彼は生命力あふれる竹にあやかり、病魔にむしばまれる自らを奮い立たせようとしたのだろう。
しかしこの年の4月14日、その想いも叶わず、晋作はこの世を去った。


【字】
元服時につける名前。
「暢夫」
「暢」はのびのびとしたという意味である。「ちょうふ」と読むのが適当と思われるが、書籍によっては「のぶお」と読んでいるものもある。暢夫の字は萩の郷土史家・香川政一の『高杉晋作小伝』によると、萩油屋町で私塾温古堂を主宰していた羽仁稼亭から授けられたものだという。


【変名】
現代でいう偽名。命を狙われることの多い志士たちにとって変名は必須だったようである。
「三谷和助」
文久2(1862)年閏8月、藩の方針に異議を唱えた晋作は、常陸笠間に亡命するが、間もなく江戸に連れ戻された。桂小五郎らの計らいで処罰は受けなかったが、それからしばらく晋作は「三谷和助」の変名を使用する。
三谷の性は高杉家祖先の地とされる、芸州(広島県)三渓郡にちなんだものである。

「谷梅之助」
元治元(1864)年11月、晋作は九州に亡命するが、この時は「谷梅之助」という変名を用いた。梅之助の梅は、晋作が愛した梅の花からとったもの。同年12月に下関で挙兵し、藩に弓を引いて「逆賊」となった。晋作の罪が許されるのは慶応元(1865)年3月14日のことで、この間「谷梅之助」で通している。

「備後屋助一郎」
内戦後、下関開港を提案した晋作は反対派から命を狙われ、四国に逃亡する。その際に使用したのは「備後屋助一郎」の変名である。「備後屋」は、高杉家のルーツとされる備後高杉城に因んだものだと思われる。


<参考文献:一坂太郎 『高杉晋作こぼれ話』春風文庫 『高杉晋作の29年』新人物往来社>


こうしてみると、ホントにたくさん名前がありますよね。
昔の人ってそんなに名前に執着がなかったんでしょうかね…
これでも高杉さんは少ない方なんですよ。
桂さんなんか変名だけでも10個ぐらいありました(笑)

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