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木曜に提出のレポートがあるのに一切やっていません。
こんなことしてる場合じゃないのに、手が止まりません。

四天王最後の1人いきます。彼については語りたいことがありすぎて、あまりにも長くなったので2回に分けることにしました。それでも長いです。しかもぐだぐだです。

それでも読んでやるよ、という懐の広いお方はどうぞ。

高杉晋作

高杉晋作p2 高杉晋作p1

天保10年8月20日(1839年9月27日)~慶応3年4月14日(1867年5月17日)
長門国萩菊屋横町生まれ。藩士高杉小忠太の長男。
通称:晋作・和助・東一  字:暢夫  号:東行・西海一狂生など  諱:春風  のち谷潜蔵と改名
享年27。明治24年4月8日、贈正四位。

生涯
村塾の双璧、三秀、四天王。塾生の中ではずば抜けて身分が高い。幼少時は近所の吉松塾へ通い、その後藩校明倫館へ入学。しかし古い形式にとらわれた学問しかしない明倫館に嫌気がさした晋作は、剣術に打ち込むようになる。安政5年(1857年)、幼馴染みの久坂玄瑞に誘われて松下村塾へ入塾。松陰の下で学問に打ち込み、頭角を現す。

安政6年、晋作は江戸へ遊学。この頃松陰も江戸へ護送されており、晋作は師のために奔走する。しかし10月7日、藩命により晋作は帰国することとなった。その10日後の10月27日。死刑判決が下され、松陰は処刑された。何も知らない晋作が萩に向かっている道中のことであった。
帰国後、師の訃報を聞いた晋作は、悲しみと激しい怒りに襲われた。藩の要職周布政之助に「松陰先生の仇は必ずとります」と書き送っている。

安政7年(1860年)、晋作は萩城下一の美人と評判の井上雅と結婚する。結婚生活を楽しむ間もなく、晋作は藩命により江戸の軍艦教授所に入門。しかし、嫌気がさしてしまった晋作は藩命を無視して勝手にやめてしまった。その後、東北遊学の許可を取った晋作は8月26日、桂小五郎・久坂玄瑞らに見送られ、加藤有隣・佐久間象山・横井小楠などに面会。見識を深めていく。

文久元年(1861年)、晋作は幕府遣欧使節団に同行してヨーロッパ視察を命じられたが、急遽変更となり、上海へ赴くこととなった。上海ではちょうど太平天国の乱が起こっており、また上海は欧米列強の植民地状態であった。この上海視察が、晋作に多大な影響を与えた。

文久2年(1862年)、晋作をはじめとする塾生たちを中心とした仲間たちで、横浜在住の外国人襲撃を計画する。しかし計画が他藩士を通じて長州藩に漏れたため、取りやめた。だが晋作は諦めず、長州人だけの攘夷組織「御楯組」を結成。そして同年12月12日、御楯組の同志13人と共に、品川御殿山に建設中の英国公使館を焼き討ちする。

翌年、晋作は周布政之助に「公家に金をばらまく暇があるなら、国許で富国強兵をすべきである」と進言するが、「それをするにはまだ10年早い」と言われたため、晋作は「ではそれまで10年間暇を貰います」といい、髪を剃り“東行”と名を改め、萩に引っ込んでしまった。

その後、長州藩は攘夷を決行するも、外国の報復攻撃の前に敗北。これに危機を感じた藩から呼び出された晋作は、藩主に「民兵組織」結成の進言。これが受け入れられ、下関の廻船問屋・白石正一郎宅ですぐさま立ち上げた。これが世にいう「奇兵隊」の誕生である。
しかし、奇兵隊と藩の正規軍との対立が起こり、奇兵隊が正規軍の兵士を殺害してしまう。〈教法寺事件〉
この事件の責任を取り、晋作は奇兵隊総督を辞任。結成からわずか三ヶ月であった。

文久3年、八月十八日の政変により長州藩は京都から追放。京都進発を唱える来島又兵衛に、晋作は「自分が京都を見てくるまでまて」といい、そのまま脱藩。しかし、桂や玄瑞に説得され帰国。晋作は脱藩の罪で野山獄に入れられる。そして池田屋事件をきっかけに、禁門の変が勃発。この戦で敗北した長州は、保守派が政権を握り、藩内の攘夷派の粛正を始め、幕府恭順の姿勢を見せた。

この情勢に危機を感じた晋作は、保守派を倒すべく奇兵隊をはじめとする諸隊に動員を要請するも、誰もが「無謀である」と動かなかった。しかし晋作は諦めなかった。ついに死の覚悟をきめ、藩政府2000人相手に僅か80人で決起。これが世にいう「功山寺決起」である。僅か80人でありながら下関の占領に成功し、藩の海軍所である三田尻を襲い、無血で軍艦三隻の奪取に成功する。そしてこの成功に引きずられるように各諸隊も続々参加。ついに保守派を破り、藩論を倒幕へと統一することに成功した。

長州藩の動きを不穏と見た幕府は第二次長州征伐を結構。10万以上の大軍で長州の4つの国境から攻め入った。〈四境戦争〉海軍総督に任命された晋作は、奇抜な発想と戦略によって50倍もの幕府軍を翻弄。奇襲攻撃や心理作戦により、ついに幕府軍を打ち破った。この長州藩の勝利により、時勢は一気に倒幕へと傾く。

しかし、この戦中に晋作は風邪をこじらせ肺結核を発症。休養を命じられるもムリをして戦い続けた。
その後晋作は下関で療養に入る。
しかし病状はいっこうに回復せず、これまでの無理がたたったのか、慶応3年4月14日。
晋作は維新を見ることなく、下関で静かにこの世を去った。
享年27。
大政奉還のわずか半年前であった。


〈参考文献:『月刊松下村塾vol4』 『高杉晋作の29年』〉
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