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人から見た自分シリーズ、玄瑞編②です。
いまさらだけど、ネーミングセンスないですよね……





桂小五郎
 ・「久坂実甫遺稿」
亡友久坂実甫は、幼少より学を好み、剛毅卓立、俯仰俗見に随わず、慨然として天下の務に志を有していた。しばしば常武・京摂の間を往来して数多の志士に交わったが、そはみな当世の魁傑、ともに時事を討論し、献替して憚るところがなかった。わが長州藩で○に気節を尚んだのは吉田義卿(松陰)の徒を第一とするが、実際運動に身を挺せること実甫に如く者は一人もいない。故に義卿すでに歿して後、実甫の風を聞いて興起せる者すこぶる多かった。時務を知る者にあらざれば、いかでかくの如くあり得よう。
元治甲子京都の変の時、実甫は某公に謁し、ある事を請うた。たまたま敵軍大いに迫ったけれども、実甫は少しもダジロがず、諄々として大義を説いて止まなかった。ついに用いられぬと知って始めて去り、衆とともに敵を衡いて快戦したが、身に重傷を負うてやむなく退き、自刃した。まさに死なんとして、衆を顧みながら、「僕はこれまでだ、諸君は大いに勉めてくれよ」と云い、些かも窮迫の様子がなかった。大節を持する者にあらざればかくの如くあり得まい。
世に文筆学問の徒は少なしとしない。けれども徒に訓○をつとめて世務の何ものなるかを知らなかったり、声利に汲々として図書の間に老ふる者ばかり多い。義勇の士もまた決して少なしとしないが、或る者は暴虎○河して快とし、或る者は血気にはやって敢えて危険を冒す。実甫の如きはこれ等と相去ること大いに遠かった。
これを俊傑といい剛者と称するに間違いはなかろう。実甫は死んだ時二十五歳であった。
惜しいかな、彼をなお世に在らしめ、益々その志すところを尽さしめ得たら、成就するところ現在の如きに止まらなかったであろうが…



伊藤博文
 ・出典不明
長州の志士として色々澤山に出たが自分の是迄に目撃したところでは久坂が第一の人物であろう。


横山幾太(村塾生)>
 ・「鴎磻に釣餘鈔」
久坂は…平安湖に成長する故…余等はその幼なる時はよく知らざれども、その名は萩中に聞こえて居たり。その人は君子の風あり、よく人を容る。性はなはだ文才あり。音吐明晰、鐘の如し。一見その風采の衆に秀出するを知るに足れり。松陰先生の門に入るや、実に先生のこれ待つ高杉に同じ、餘子は及ばざるなり…。


渡辺高蔵(村塾生)>
 ・「久坂玄瑞遺稿」
抑々我らの先輩とも畏友とも仰ぐべき久坂は、明治大革命の創始者なり。然るに未だその伝記もなく、嘖々たること木戸、高杉に及ばざるものの如きは遺憾の至りなり。之は自然の其の事業の経過を異にしたるが為るかも知れず、所謂縁の下の舞台ともいうべきか。維新の根源は、久坂・寺島が脱藩して大阪の藩邸に至り、真木和泉等との会合を以て萌芽となす。其れより例の廻○条議となり、絶食嘆願となり、攘夷に至って最初の総督は此の人なり。然るに四鏡の大変(第二次次幕長戦争)といふ大活劇を演じたる高杉に及ばずと世人の想像をなすは、無理からぬ事なれども、同時に又遺憾の極みなり。


天野御民(村塾生)>
 ・「防長正気集~防長烈士遺傅~」
通武(玄瑞)、人と為り公明誠実、音吐鐘の如し。常に諸子を率て東西に奔走す。人、皆推して盟主とす。通武毎に謙譲して敢て居らず。然れども事巨細となく通武に決せざるは無し。其事を為に方て先ず衆を会し、○○事の詳説し、胸襟を開て徐に其方略を議す。人も亦其赤心に漢字、肝胆を○て可否を論ず。故も以て事一も失墜なし。


月性
 ・安政4年12月「吉田松陰宛書簡」
御令妹を久坂生へ御妻せの由、御好配を得られ御満堂御大慶と大賀し奉り候。御令妹を先年桂(小五郎)生に勧め候こと御座候が、小五郎は壮士に候へども、読書力と憤夷の志は日下生遥かに勝るべく候。誠に佳婿々々。

 ・安政5年2月「藤森弘庵宛書簡」
この子、弊藩医員久坂玄瑞と申し候、読書憂国の一慷慨男子に御座候、御接見下さるべく候。同行半井子も亦然り。何分宜しく御教訓奉願候。


以上です。
まず一言。
桂さ~ん、長いよ…… 打つの大変だった。
高杉さんに比べ玄瑞は手がかからないと思われがちですが、彼もかなり無茶してますからね。
桂さんにとって双壁(というか村塾一門)はかなり頭痛の種だったはず(笑)
お疲れ様です、ホント。

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