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2009.07.11 久坂玄瑞
眠いけどがんばりました。

松門四天王3人目登場。
久坂玄瑞

久坂玄瑞p


天保11年月日不明(1840年)~元治元年7月19日(1864年8月20日)
長門国萩平安古八軒屋生まれ。藩医久坂良迪の三男。
幼名:秀三郎  通称:義助  字:玄瑞・実甫  号:秋湖・江月斎  諱:道武・誠
享年24。明治24年4月8日、贈正四位。

生涯
松下村塾の双璧、三秀、四天王。幼少時には近所の吉松塾で学ぶ。そこには1つ年上の晋作も同席していた。17歳の時に村塾へ入る。九州遊学の際、松陰の親友である宮部鼎蔵の話から松陰に関心を持ち、安政3年(1856年)に松陰に手紙を送る。以後三度のやりとりで激しい批判を受け、同年6月に入塾を許された。松陰は玄瑞を「防長第一流少年」「天下の英才」「実甫の才は縦横無尽」と絶賛。高杉晋作と共に“村塾の双璧”と並び称された。

松陰没後はその意志を継ぐことを決意。文久元年(1861)、長州藩の藩論が公武合体になったことに憤慨。藩主に反対意見を提出するなど行動を起こし、同年藩論を「破約攘夷」へと転換することに成功。また同年、高杉晋作らと英国公使館焼き討ち。翌年、下関で光明寺等を結成し、攘夷を決行する。「薩の西郷、長の久坂」と言われ、尊王攘夷派の指導者として活躍する。

文久3年、天皇の大和行幸を計画し、実行寸前まで至る。しかし、長州の勢いを嫌った会津・薩摩を中心とした公武合体派の策謀により、長州寄りの7人の公家と共に京都から追放される。〈八月十八日の政変〉
玄瑞らは七卿を守りながら長州へと撤退する。その時玄瑞は即興の今様の歌を吟じ、失意にうちひしがれる一行を励ましたという。 〈七卿落ち〉

玄瑞は神戸で一行と別れ、桂小五郎と共に京都に戻り、長州の権威復権を目指し奔走する。また、武力で復権しようとする過激派を押さえていた。しかし、元治元年6月5日、京都池田屋で会合中の志士たちを新選組が襲撃する。〈池田屋事件〉
この事件で玄瑞の親友の1人、吉田栄太郎(稔麿)が命を落とした。栄太は村塾の三秀、四天王の1人であった。これをきっかけに国許の京進発派は激高。玄瑞や晋作は反対するも留めることはできず長州は進軍を開始。そして京都御所、蛤御門で薩摩・会津を中心とする幕府方と激突。〈禁門の変〉

玄瑞も将として参戦。玄瑞は鷹司卿に帝への拝謁を願うも拒否をされる。また足に銃撃を受けて負傷。最期を悟った玄瑞は入江九一に事後を託し、村塾の同門である寺島忠三郎とともに鷹司邸で自刃する(差し違えたとも)。享年24。

意外と面食い?
玄瑞は身の丈六尺、色白で見目の良い美男子であったらしい。右目が斜視であったらしいが、秀麗な容貌であったという。六尺は180㎝くらい。当時の平均身長は150㎝程度であったからかなり大きい体格である。また彼は詩吟の才能もあった上にかなりの美声の持ち主で、祇園で詩を吟じながら歩くと芸子達がそろって聞き惚れていたという。
そんな色男で才能豊かな玄瑞に、松陰は妹の文を嫁がせようとする。その話を聴いた後、玄瑞は松陰の親友で塾生の中谷正亮に「妻にするなら美人が良い・・・・」と言った。すると中谷は「お前は妻を選ぶのに容姿を気にするのか!」と怒鳴りつけた。ムッときた玄瑞は結婚を了承したという。
天下の英才もやっぱり男の子であった。

周りのからの評価
生涯の師である松陰を始め、多くの人間がその才能を高く評価している。
ライバルであり親友でもある高杉晋作は「玄瑞の才に自分は及ばない」「彼ほどの人物は生涯出てこないだろう」と絶賛。吉田栄太郎も「身分は医者だが、廟堂に座らせれば堂々たる政治家である」と高く評価している。
またあの西郷も維新後、長州人に会うたびに「お国の久坂先生が御存命ならば、自分など参議などと大きな顔はしておられません」と語ったという。
その人柄から年上から年下までに慕われ、才能にあふれていた玄瑞の早すぎる死を多くの人が惜しんだ。彼が明治まで生きていたなら、明治政府もまた違ったものになったことであろう。

あとがき
文章を書く才能がほしい・・・読みにくくてすいません
まだ書きたいことがたくさんありますが、これ以上長くなるのはやばいので次回に回します。
ついに四天王もあと1人です。

〈参考文献:吉田松陰と塾生たち・吉田松陰全集〉
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