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幕末の人、というか昔の人って結構こまめに日記を書いてますよね。
たとえば桂さん。
図書館で実際に見てみればわかると思いますが「木戸孝允日記」という分厚い本がずらり。
彼はほんとにこまめに日記をつけています。
内容は明治政府での苦悩、大久保さんへのグチ、帰り道で川に網を投げたという謎の行動(笑)まで様々です。
借りようと思いながらも図書館へ行く時間がなく、2月から言ってるのに未だ手をつけていない状態…
もちろん桂さんだけでなく栄太郎の「吉田稔麿日記」、玄瑞の「江月斎日乗」などがあります。
この2つは近くに資料がないので詳しい内容はわかりませんが。
そしてもちろんあの高杉さんも日記を残しております。
簡単ではありますが、どういう日記なのか紹介したいと思います。
見てくださる方は続きからどうぞ。



 とうはんろく
「東帆録」
安政6(1859)年8月23日付の久坂玄瑞への手紙にて晋作は「海軍を学びたい」と述べている。
その願いが叶ったのは翌年の万延(1860)元年2月25日、晋作は藩命により軍艦教授所に入所し同年閏3月7日、航海実習(海軍蒸気科)として江戸差し遣えを命じられる。そして4月5日、丙辰丸に乗船し萩から2ヶ月かけ江戸へ向かうこととなる。その間の航海日誌が「東帆録」である。しかしなぜか紀州沖の5月23日で筆を折っている。

4月15日
「風なくまた潮悪し、船進むに似て退く。午後西風少し起こる、白帆満飽、一に馳せて赤馬関(下関)に入る。赤馬間は山陽の第一港なり。泊舟数○、○花林立す。淡窓の詩、いわゆる千帆わずかに去れば千帆至る、これはこれ山陽の小浪華は、これなり」
※本州最西端下関を見て


  しげきこうにっぷ
「試撃行日譜」
航海実習生として万延元年6月、江戸に到着した晋作は念願の関東・信州・北陸方面への遊暦をしながら帰国する計画を藩へ願い出て許可された。8月28日江戸を出立し、各地で剣術修行をしながら加藤有隣、佐久間象山、横井小南など高名な学者にあって見識を深め10月下旬、萩に帰着するまでの日記。一坂太郎氏曰く、沿道で見た人々の風俗も細かに記載されているので、幕末当時の旅日記として興味深いとのこと。しかし9月9日、壬生以降の記述はなぜか簡略化されているので実質中断。

8月28日
「半時、卯時、櫻邸外父井上氏の居を辞す。送る人数十人。予東武に在りて友人最も多し。故に離情頗る卿を出づるの思ひを為す。手を携へて遅歩し、且つ行き且つ談じ、浅草に至りて旗亭に投じ別杯を酌む。小塚原の二十一回先生の墓に謁し別れを告ぐ。既に千住に至らんと欲し、一騎前より馳せ来る有り、近づいて之を見れば、即ち桂小五郎なり。
予邸を出づるとき、五郎予を送らんと欲す、而れども五郎公事有りて期を失す、因って急速に馬を馳せて来ると云ふ。千住の常州道をと日光道の分境に至り、予送者に謝して曰く、離情○くるなし、請ふ是より袂を分かたんと。予は即ち常州道に向かって去る、送者は皆東武に帰る。別語匆々、壮士と雖も将に感涙に至らんとす。利根川の支葉中川なる者を渡り、新宿○に宿る。この日予を送る者、唐津藩大野又七郎、同藩桂小五郎・久坂玄瑞・楢崎弥八郎・南亀五郎・三浦音祐、皆余の真の知己なり。」



        せつぎょにっし
「セツ(執の下に日)御日誌」
「セツ御」とは主君のそばに仕えるという意味。
文久元(1861)年3月11日、晋作は明倫館勤務と兼務で、藩主世子・毛利定広の小姓役として出仕を命じられる。
3月13日の初出仕から江戸に絶つ7月9日までの日記。この日記の特徴は、幕末当時、萩城下で生活する一人の青年武士の日常が記録されていることである。国事に関するような記述がほとんどなく、家庭内のことや親族との交流など細かく記されている。

閏3月28日
「雨晴。好天気六ッ時前に起き、結髪入湯す。拝神例の如し。五ッ時、御城まかり越し、夜着部屋へまかり出で候。刀は刀掛の下へおき候。御櫛岡儀右衛門、兼重淳輔差し引きにて、御目見下習い等つかまつり候」
5月6日
「この日読書、或いは庭中散歩す、夕飯後庭の掃除をなす」


  しょばんてこうにっぷ
「初番手行日譜」
『セツ御日誌』に続く勤務日誌。
文久元年7月10日早朝、萩を発って世子のいる江戸に向かう所から始まり、なぜか勤務途中の10月24日で中断されている。

7月10日
「発程。早朝家を辞す。送る人数十、余を金谷に送る。佐々並駅午飯を認む。斜陽山口駅宿に入る。終日歩行」


  ゆうしんごろく
「遊清五録」
文久元年12月23日、晋作は幕府の貿易視察団に加わり、清国の上海形勢視察の藩命を受け、翌年2月4日、長崎より千歳丸に乗り上海へ渡る。この日記は「航海日誌」「上海掩留日録」という二編の日記と、「内情探索録」「外情探索録」「崎陽雑録」という三篇の情報記録書から成る。この上海での視察が、後の下関戦争の講和条約の席において大きな影響を与えることになる。

5月7日
「仏暁、小銃の声陸上に轟く。皆云はく、是れ長毛賊と支那人と戦ふ音なるべし。予即ちおもへらく、この言信なるは実戦を見ることを得べし」
5月21日
「此の日終日閑座す。因りて熟々上海の形勢を観るに、支那人は尽く外国人の便役と為れり。英・法の人街市を歩行すれば、清人皆傍に避けて道を譲る。実に上海の地は支那に属すると雖も、英仏の属地と請ふも又可なり」
7月21日
「予君命を奉じて幕吏に随従して支那上海港に至り、又彼地の形勢及北京の風説を探索し、我日本も速に攘夷の策を為さずんば、遂に支那の覆軼を踏むも計り難しと思しなり」


  とうごくぶんき(ごくちゅうしゅき)
「投獄文記(獄中手記)」
元治元(1864)年1月、京都新発を止めようとした晋作は上方に向かった。しかし藩は脱藩したとみなし帰国させ、3月29日に野山獄に投じた。この日より書き始めたのがこの日記である。日々の胸のうちが数十篇の詩で綴られているのも、この日記の特徴である。自宅の座敷牢に移った6月21日で終わっている。
3月29日
「甲子三月二十九日獄に下る。ならびに国歌一首、誹歌一首。
 (漢詩省略)
 ・今さらになにをかいわむ遅桜 故郷の風に散るぞうれしき
 ・先生を慕うて漸く野山獄」

5月20日
「この際、杉伯教(松陰の兄・梅太郎)の需めに応じ、先師二十一回猛士(松陰)の文稿を閲校す。随って誌し、随って録す。一日の間、○写その半ばを居る」

<引用・参考:『高杉晋作の29年』 一坂太郎・新人物往来社>

以上6つが確認されている彼の日記です。
しかしこうしてみると、途中で投げ出したものが「東帆録」「試撃行日譜」「初番手行日譜」の3つもあります。
「東帆録」に関しては、高杉さんは途中で「自分に舟は向かない」と思ったらしいので日記を放り出したのかもしれません。他の2つはなぜやめたのか。高杉さんのことだから面倒になったのかもしれません(笑)
ここに乗せた一番おもしろかったのは「セツ御日誌」の5月6日付です。
「夕飯後庭の掃除をなす」
掃除する高杉さんとか想像できない……!!
笑ったらかなり失礼だけど、読んだ瞬間吹き出しました。
こういうの読むと国事に奔走する志士ではなく、どこにでもいる青年て感じがしますよね…
高杉さんの日記はなんかギャップが感じられてかなりおもしろいです。

このすべての日記が所収されている「東行先生遺文」を手に入れたのですが、これがまた大正5年発行で全て漢文体の上、返り点と送り仮名が一切無いんです…
だから読もうとするとものすっごい時間がかかるんですよね。
まあ頑張って読みたいと思います。
次は桂さんの日記かな。
その前に旅行記を完成させたい…
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