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2009.07.10 入江九一
がんばりました・・・

松門四天王2人目です





入江九一

天保8年4月5日(1837年5月9日)~元治元年7月19日(1864年8月20日)
長門国萩土原生まれ。足軽入江嘉伝次の長男。野村和作(靖)の実兄。
通称:萬吉・杉蔵・九一  字:子遠  号:松白  諱:弘毅
享年27。明治24年4月8日、贈正四位。

生涯
松門四天王の1人。4人の中では一番年上である。村塾への入塾は一番遅く、彼が入塾してから一年後、松陰は再び投獄されてしまったため、学んだ期間は短い。しかし、九一は松陰の考えに深く傾倒し、尊敬した。
また松陰も九一を深く信頼した。ファンからはたまに「村塾の母」と言われる。

安政5年11月、松陰は老中間部詮勝の暗殺を計画する。九一も参加するも、驚いた藩によって松陰は投獄。九一も弟・和作と共に自宅謹慎となった。
安政6年に松陰は伏見要駕策を計画。しかし今度の計画は塾生のほとんどは反対。だんだんと過激になっていく松陰から塾生達は離れていった。しかし九一と和作は賛同。どこまでも松陰に従った。しかしこの計画も失敗に終わり、九一は弟と共に岩倉獄へ入れられた。その後松陰は江戸絵送られ、安政6年10月27日処刑。九一は獄の中で師の訃報を聞き、その志を継ぐことを決意する。

文久2年(1862年)、九一は志士として活動を開始。翌年に村塾の同門、久坂玄瑞とともに光明寺党を結成し、攘夷戦争に参加するも敗北する。その後、危機を感じた藩は隠遁していた晋作を呼び出す。晋作はすぐさま意見書を提出。そして身分にとらわれない奇兵隊を結成する。九一はいち早く参加し、幹部として晋作等から厚い信任を受けた。また藩からも高い評価をえた。

文久3年(1863年)、これまでの働きを認められ、九一は一代限りの武士の身分となった。久しぶりに萩に帰り、家族と過ごす九一だったが、これが家族と過ごす最後の時となった。

翌年元治元年6月5日、京都池田屋にて会合中の志士たちを新選組が襲撃。九一の友でもある吉田栄太郎も命を落とした。この事件に激怒した長州藩は、京都へ進軍。九一も玄瑞らとともに幹部として出陣。御所を守る薩摩・会津と激突。
元治元年7月19日、蛤御門の変が勃発。数で劣る長州軍は敗北。九一は玄瑞に後を頼まれ、鷹司邸から脱出を測る。しかし、待ちうけていた敵兵に銃撃され負傷。最期を悟り、その場で自刃した。享年27。

松陰からの評価
学んだ時間は僅かだったが、九一は松陰を尊敬し、また松陰も「彼の国を憂い心配する心は立派であり、今後何をすべきかわかっている。このことでは私は九一に及ばない」と評価した。高杉晋作に宛てた手紙でも「九一と共に仕事をするように」と書き、深く九一を信頼した。
晋作も「自分がまともに論議できるのは九一だけ」と松陰に宛てて書いている。

実は最強?
これは後年山県有朋が語った話である。
「高杉が一度怒り出したら誰もなだめることができなかった。只これを押さえることができたのは、松陰先生をのぞけば同門の入江だけであった。先生に頭が上がらぬのは勿論であるが、どういうわけか高杉はどうも入江が苦手とみえて、入江が説き出すといつも高杉は大人しくなった。故に我々は高杉が怒り出すと、いつも入江に頼んでいた。」


あとがき
やっぱり長くごちゃごちゃしてしまいます。どうやら文を書く才能がないみたいです・・・
九一も栄太と同様、あまり知られていません。栄太はまだ池田屋で名を知られていることもありますが・・・ また、彼も写真や肖像画は残っておりません。弟・和作は取っているのになぜでしょう・・・?弟から連想するしかありません
九一が高杉をなだめることができた、というのはどうやら本当のようです。なんでも暴れる高杉に向かって「高杉さん、ずいぶんとお非道ございます」と、にっこり笑っていったという・・・恐ろしや
さすがの「放れ牛」も、「村塾の母」には勝てないらしい(笑)

〈参考書籍:月刊松下村塾vol5、山県公のおもかげ〉
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