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2010.02.08 毛利元徳
久々の人物紹介。
ようやく世子様の登場です。


 毛利元徳

毛利元徳

天保10年9月22日(1839年10月28日)~明治29年(1896年)12月23日
通称:長門守 号:静斎 萩の舎 忠愛など 諱:広封 定広 元徳 
長州藩第15代(最後の)藩主
従一位勲一等公爵
享年57

生涯
長州藩支藩である周防徳山藩第8代藩主・毛利広鎮の十男として生まれる。
嘉永5年(1852年)、長州藩主・毛利敬親に嗣子がいないためその養子となる。
はじめ広封と名乗っていたが、将軍家茂から偏諱をうけ定広と改名。
文久元年、長井雅樂の公武合体のため2年間江戸・京都を往復し、文久3年の加茂行幸・石清水行幸を
建議し、これに供奉する。しかし同年に起こった八月十八日の政変により入京を禁じられる。
翌年の元治元年、朝廷への嘆願のため軍を率いて上京したが、途中蛤御門の変を聞き引き返した。
御所に攻め込んだため、長州藩は朝敵の汚名を受け征長令が発令。
同年8月には官位を剥奪され、また幕府より「定」の字を召し上げられたため、広封に戻す。
第一次長州征伐後の慶応元年12月、高杉晋作のクーデターにより藩内は革新派で統一。
つづいて起こった四境戦争にも勝利し、慶応3年12月には官位復旧と入京を許され、明治元年に上京する。

維新後は元徳と改名、敬親の隠居をうけて家督を相続し藩知事となる。
廃藩置県後は第15国立銀行頭取、貴族院議員となる。


あとがき
若殿は高杉さんと同い年なんですよね
敬親公は革新派でも保守派でもありませんでしたが、
この若殿はどちらかというと高杉さん達の攘夷派よりでした。
同年代という事もあってか若い志士たち、特に松陰門下生にはかなり理解を示しています。
高杉さんが脱藩した時も自ら手紙を書いたり、栄太の脱藩を許したり
梅屋敷事件で自ら出向いて説得したり(この梅屋敷事件についてはまた書きます)。
当時としてはやはり異例に近いですよね…。
なぜ彼がこんなにも志士たちを助けるのか。
さきも書きましたが、高杉さんとは同い年です。高杉さんにとっては忠義を尽くす主君ですが、
若殿は高杉さんに対して、きっと親友に近い感情も持っていたんではないかなあと思っています。
高杉さんは彼の小姓しててかなり距離が近かったんです。
それに当時は幕末。多くの若者が国のために志士として奔走した時代。
長州という地に生まれ、高杉さんと同い年である若殿が「自分も志士として奔走したい!けど自分の立場では許されない。なら自分は彼らを支援しよう」と思ってもおかしくはないんです。
あくまで私の妄想です…

長々と失礼しました。

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