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ついに「その時歴史が動いた」のDVDを1つゲットしました。
新品は3000円ちょいするのでしばらく買うのを踏みとどまっていたのですが、
ヤフオクで新品がなんと1200円で売りに出されていたので飛びつきました。
今回買ったのは、玄瑞のエピソードです。

つづきから感想かなんなのか分からないことを綴っておりますので
見て下さる方はどうぞ。長いです。

その時歴史が動いた
「幕末 京都炎上」~長州・久坂玄瑞、志に散る~

その時:元治元年(1864年)7月19日/長州藩、禁門の変に敗れる
京都の多くを焼き尽くした禁門の変。きっかけを作ったのは長州の志士・久坂玄瑞であった。
攘夷運動の中心であった長州藩は、宿敵・薩摩を中心とする連合軍を相手とする悲壮な
戦いへと追いこまれてゆく。その中で散った久坂玄瑞の苦悩と決断の時を描く。
(パッケージ裏より)

オープニングでナレーションの松平さんが軽く説明しているのを聞いていると
「高杉晋作にと慕われ-」
ちょっとまて。
玄瑞は高杉さんより1つ年下ですよ。
高杉さんが兄として慕っていたのは、玄瑞ではなく桂さんですよ。
桂さんは村塾生の兄貴分ですから。
高杉さんは玄瑞を兄ではなく、ライバル兼親友として頼りにしてたのでしょう。

さて、細かいことはおいといて。
玄瑞の生い立ちから話は始まります。
医者の次男として生まれた玄瑞は、秀才な20歳年上の兄・玄機の影響を受け勉学に励む。
ちゃんと再現VTRがあるところがこの番組の好きな所です。
15歳の時に兄が亡くなり、家督を継ぎ坊主頭になる。
兄の影響を受けた玄瑞は新たな志を持ち始める。

我が胸の中にあるのは、病人を治す処方ではない。
天下を治療する処方である

 (18歳の時に作った詩より)

…18歳でこんな事が言えるなんて考えられません。
末恐ろしい子です。

安政4年(1857年)松下村塾に入塾し、高杉晋作と共に
松下村塾の双璧といわれる。
この時の再現VTR。
玄瑞の隣に高杉さんが。ちゃんと羽織に家紋も入ってます。
そして玄瑞をチラ見(というか堂々)する高杉さん(笑)

安政6年(1859年)10月27日。
吉田松陰処刑。
玄瑞は松陰の志を継ぐことを決意。
松陰の後継者として玄瑞の名は他藩に知れ渡り、攘夷派の武士が訪れるようになる。
玄瑞は彼らに告げる。

大名も公卿も、もはやあてにはなりません。
頼るは我々、たとえ身分が低くとも、
志ある草奔たちの決起のみ。

(土佐藩の同志への手紙より)

いわゆる草奔崛起ですね。
玄瑞の激を受け、あの坂本龍馬は脱藩を決意します。

上京し政治活動を開始する玄瑞。
都で名を知られるようになる。

ナレーション
きりりとした顔立ち。
坊主頭に二本差しという目立つ姿で得意の詩を吟ずれば
「長州の久坂さんが通る」と、美しい芸妓たちが集まったといいます


…この色男め!!
彼は面喰いですから、きっと嬉しかったに違いない(笑)

文久3年(1863年)5月10日
長州藩の外国船への砲撃
映像は年末ドラマ「奇兵隊」が使われてます。
そして文久3年8月18日
八月十八日の政変
長州藩、都より追放される。
玄瑞はその悔しさを即興の詩に。

都を去る今、東山の、嶺の秋風が身にしみる。
朝な夕なに聞き慣れた、妙法院の鐘の音も、今宵はとても物悲しい。
いつの日か、御所にかかる暗い雲と霧を払いつくし、
都の月をいつくしみたいものだ。


これはもちろん「七卿落ち」の歌です。
どれほど悔しかったのでしょうか。
都落ちのこの日は、まるで空が泣くように雨が降りました。

この政変をうけ長州では対応を巡って激論が交わされた。
都に進軍すべきとの強硬論は、来島又兵衛。
この出兵論に玄瑞と高杉さんは反対。
VTRにはちゃんと隣に座っています。
議論は平行線のまま。
都では長州派の浪士による暗殺が横行。
公家の中には長州の言い分に傾く者も出てくる。
薩摩は国に帰る。
玄瑞は都の反長州が少なくなった機会を見、
出兵論に賛成する。

攘夷については始めより成算のあることではない。
それよりも国家の大方針が立つか立たないか、
大儀が駆けてしまうか否か、という問題なのだから
一点も動揺があってはならぬことである。

(桂小五郎宛の手紙)

都への出兵が決定。
元治元年(1864年)6月5日
池田屋事件…死者7人、逮捕者23人
池田屋の訃報を聞き、長州藩激高。
元治元年6月16日
玄瑞、兵を率いて京へ向かう。
同年6月24日
玄瑞、天王山のふもとに布陣し朝廷へ嘆願。

我々の目的は戦ではありません。
ただ藩主が京に入ることをお許しいただき、
長州の冤罪を晴らしたいのです。
その上で身命をとして、攘夷を決行する所存です。


玄瑞は武力の圧力を以てして朝廷を動かそうとした。
彼は決して戦をすることを望んでいなかった。
しかし朝廷からの返事は来ない。
その上欧米四国艦隊が報復にやってくるという情報。
彼は焦っていたんですね…

元治元年7月17日
朝廷は長州藩に対する強硬論に傾く。
同日
長州軍、軍議を開く
来島が進軍を主張
玄瑞は朝敵になることを危ぶみ反対
そして来島が言い放つ

卑怯者!
医者坊主などに戦のことがわかるか!


こらああああああ!!
来島のおやじ!!なんてことを言うんじゃ!!
この話を始めて聞いた時はこのように激怒してました。
禁門の変を起こしたのは玄瑞だ、と言われますが
自分はこの来島のおやじだと思っております。
医者の生まれだが、国のために奔走しようやく武士になれた玄瑞。
武士としてよりいっそう国のために。
そんな彼にとって、これは何よりもきつい一言でした。
玄瑞はこれに何も言い返すことはありませんでした。
そしてついに御所への進軍が決定してしまう。

~その時~
元治元年7月19日未明
禁門の変
最大の激戦地は蛤御門。
来島はここで戦死。
玄瑞の隊は鷹司家にたてこもる
玄瑞は天皇への直訴を哀願。
しかし鷹司卿は巻き添えを恐れ拒否。
玄瑞は仲間に最後の指示を出す(もうココで涙)

君たちはここを脱出し、主君にこの戦いの様子を伝え、
都へ上らぬよう、押しとどめてくれ。
 

屋敷には幕府連合軍によって火が放たれる。

ナレーション
かつて松下村塾で久坂と供に学んだ入江九一が、
久坂の乱れた髪をまとめます。

このエピソードをいれてくれるなんて…!!
ナイスだN○K!!

元治元年(1864年)7月19日
久坂玄瑞、自刃
享年24
長州はここに敗れ去った。

同年8月5日 下関戦争
長州は大敗。
同年11月 第一次長州征伐
長州藩降伏。
長州が倒幕に向けて走り出すまで、あと半月。

エンディング
久坂の遺志を継いだ人、そして久坂の言葉とは-

高杉晋作が禁門の変の直後、玄瑞の親族へ宛てた手紙

世間の風説では、久坂殿が死んだとのことですが、どういうことでしょう。
とかく間違った噂が動く世の中、本当なのか信じられません。
この頃は毎夜、久坂殿を夢に見ます。
心配しています。
なにとぞ、実情を御存知でしたら、早く教えて下さい。


まさかこの手紙をもってくとは…!!
これはあの恋文とならぶ有名(?)なやつです!
N○Kは私を殺す気でしょうか…?
松陰先生の兄、杉梅太郎に宛てたものです。
当時高杉さんは脱藩の罪で野山獄に入っておりました。
そこで彼は玄瑞を夢に見るんです。
書いてあるとおり、禁門の変後の手紙なので玄瑞は亡くなっています…
玄瑞はなぜ彼の夢に現れたのか…
ああもう!双璧大好きだ!

浮かれてごめんなさい。ラストです。

禁門の変から、2年後の夏。
玄瑞の志を受け継いだ高杉晋作の軍勢は、幕府軍を打ち破る。
やがて時代は明治維新へ向かう。

京都府東山、霊山護国神社。
禁門の変の長州戦死者が眠っている。
その中にある久坂玄瑞の墓。仲間達と変わらぬ、簡素なたたずまい。
玄瑞はその死の5年前、弱冠二十歳の自らを奮い立たせるため、
戒めの言葉を記した。

自分は意志が弱く、何かことをなすような人間ではない。
しかしそこで自分を駄目だと思ってあえて何もしなければ、
すなわちできることもできなくなってしまう。
一時の平安に身を任せることを日また一日と重ねれば、
ついには畳の上で老死するだけである。
 

20歳でこれを書いたんですか…
もうホント凄いです。
文才分けて欲しいです…
玄瑞は志半ばで散ってしまったけど、それは無駄にされることなく
親友である高杉さんがしっかりと受け継ぎました。
玄瑞が高杉さんの夢に現れたのは、自分の志を継いでくれるよう、
彼に頼むためだったのかも知れませんね。
それにしても最後はぼろ泣きでした。

長々とおつきあい下さってありがとうございました。
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