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2009.07.07 山県有朋
今日から松下村塾の塾生達を紹介していきたいと思います。
記念すべき一人目は山県有朋。
・・・なぜにこいつ?と思うかも知れません。理由は簡単です。
なぜなら彼は高杉さんが大好きだから。(自分の判断ですが)まあつまり私と同じというわけです。

山県有朋

山県有朋p1 山県有朋p2


天保9年閏4月22日(1838年6月14日)- 大正11年(1922年)2月1日
長門国萩川島圧生まれ。中間山県三郎有稔の次男。
通称:小輔 狂介  号:素狂 含雪 樺山荘主 無隣庵主  諱:有朋
享年85。

生涯
幼少より種田宝蔵院流槍術を学び、21歳のとき久坂玄瑞の紹介で松下村塾に入る。
のち高杉晋作が騎兵隊を結成すると、加わって軍艦となり、下関戦争や太田・絵堂の戦い、四境戦争や戊辰戦争で活躍する。
維新後は渡欧して兵制を調査。帰国後は大村益次郎の後任として兵部大輔となり、のちに徴兵令を定め、近代陸軍を確立する。
その後、陸軍卿となり参議を兼任。また初代内務大臣を務め、明治22年には3代勝利大臣となる。
一線を引いた後も、自らの巨大な派閥「山県閥」を形成し、伊藤没後は元老として絶大な影響力を誇った。

長州ファンの間では通称ガタ。村塾の同窓吉田稔麿に「棒」と称された、ちょっとかわいそうな人。
低い身分の出身のため、権力第一主義?みたいなところがあった模様で、友達はほとんどいなかったと思われる。唯一の親友は戊辰戦争で戦死。汚職事件を起こし、亡くなったときも、「死ぬのもまた社会奉仕」とまで言われた。


狂介と松陰
狂介が松下村塾に入ったのは安政5年9月。松陰は「気の山県」と狂介を評した。
しかし、その後すぐに松陰は野山獄に再投獄された為、学んだ期間はわずか1ヶ月であった。しかし狂介は維新後、松陰の話になると必ず正座をし、また「我輩は松陰先生門下である」と言い続け、松下村塾出身であることを誇りにし、生涯松陰を尊敬し続けたのである。

狂介と晋作
山県有朋を語る上で、高杉晋作の存在をなくして語れない。
狂介は後年「高杉さんのせいで自分などはいつ腹を切らされるか分からなかったので、常にその覚悟をしていた」と語っている。
奇兵隊の後継者を決めるとき、晋作は当時総督だった狂介を指名することはありませんでした。
誰より晋作に認めてほしかった狂介は、きっと彼を憎んだでしょう。
でも彼は晋作を嫌いになることも、憎みきることもできなかったと思います。
狂介は父親の影響で和歌の好み、多くの作品を残しています。その中に、ある人物へ捧げたものが存在します。その人物とは、もちろん高杉晋作です。(和歌は幕末の詩歌に載せます)
嫌いな人間の為に、わざわざ和歌を詠むことはしないでしょう。少なくとも自分ならしません。
そして晋作の愛人であるおうのを、晋作の死後狂介は積極的に援助しています。
1つ年下のくせに偉そうで、奇抜な行動に振り回され、反発もした。
だけどやっぱり彼にとって高杉晋作とは憧れの存在であり、彼と過ごした日日は、青春そのものだったはず。

後年の評価では、あまりいい評価はされていません。嫌いな人も多いはず。功山寺決起に反対したからとか、汚職まみれだからとかで。でも私は嫌いではありません。
彼を好きになってくれる人が一人でも増えてくれるといいです。

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