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2009.12.12 寺島忠三郎
次は誰を書こうか悩んでました。
前回は木戸さん大好き人間である青木周蔵にしたので、今回は久坂さん大好き(ホントにそうかは不明)寺忠に決定!

では続きからどうぞ。






寺島忠三郎

寺島忠三郎

天保14年(1843年)~元治元年7月19日(1864年8月20日)
周防国熊毛郡高水村生まれ。藩士寺島太次郎直一の次男。作間家の養子となるがのち復縁。
通称:忠三郎  字:子大  号:刀山  諱:昌昭
享年22。

16歳の時松下村塾に入る。松陰は彼を「些の頑骨あり、愛すべし」と評し、深く信頼した。
松陰再投獄の時、重役宅に押しかけた塾生8人の1人。亦松陰の江戸送りの際、外の塾生が涙松で別れを告げた後も、1人密かに生家のある高水まで追従している。
文久2年(1862年)には久坂元隋等を追って脱藩し上京。京都での松陰慰霊祭では祭主を担う。
また高杉晋作・久坂玄瑞等と英国公使館焼き討ちを行う。
翌年の文久3年(1863年)、攘夷実行期限決定後は桂小五郎と供に京都に残り、攘夷親政を工作などに奔走する。
しかし同年の八月十八日の政変により長州藩は京都を追放される。
忠三郎は京都に潜伏し情報収集を続けた。
しかし翌年の元治元年7月19日、蛤御門の変が勃発、長州藩は敗戦。
忠三郎は鷹司邸にて久坂玄瑞とともに自刃(差し違えたともいうが、見届けた鷹司邸の人間は切腹だったと語っている)。



あとがき
寺島忠三郎こと略して寺忠は、玄瑞とともに自刃したため、ファンの間では玄瑞と心中(ちがう)とよくいわれてます。
そのため寺忠は玄瑞大好き人間として見られてます。
まあ玄瑞は年上年下からも慕われ、誰もがついていきたいと思える人ですから。
寺忠が玄瑞大好きでもちっともおかしくないでしょう。
それにあの青木周蔵の木戸さん大好きっぷりに比べたら…
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