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2009.11.19 野村靖
なんと今日2人目。

本当は書いてる場合じゃないんです…
12月4日(だったはず)にある歴史検定の勉強しなきゃいけないのに…


 
 野村靖

 野村靖1 野村靖2

天保13年8月6日(1842年9月10日)~明治42年(1909年)1月24日
長門国萩土原生まれ。中間入江嘉伝次の三男。
通称:和作 靖之助  字:子共  号:欲庵  諱:靖
享年67 正二位


生涯
兄・九一が入江家を継いだ為、野村家に入り養子となる。
安政4年(1857年)に兄・九一よりも先に松下村塾へ入る。松陰は和作を「才気があり、大変読書好きである」と評している。
安政5年(1858年)、松陰の再投獄後、松陰の伏見要駕策を兄の代わりに実行する為、藩を脱藩する。しかし捕らえられ、九一と共に岩倉獄へ投獄された。その後、長井雅樂要撃策に加わるものの未遂に終わり、謹慎処分となる。
京都で高杉晋作・久坂玄瑞が中心になって結成した御楯組に血盟。前イギリス公使館焼き討ちや下関での攘夷戦争に参加するなど、攘夷活動に身を投じていく。
文久3年(1863年)の七卿落ちの際は御用掛として長州に戻り、藩主親子の雪冤に尽力した。
翌年の元治元年の蛤御門の変。和作は世継ぎ定広の軍に従い京を目指していた。しかし、長州敗戦の報告を聞き、そのまま引き返すことになった。この蛤御門の変で、兄・九一が戦死。

和作は兄の死を知らせる為萩に帰郷。しかし藩政は保守派が握っており、和作も命を狙われる。
しかし高杉晋作の挙兵により、藩内が倒幕派で統一された。
慶応2年(1866年)の四境戦争では、御楯隊と共に芸州口の小瀬川で奮迅。みごと幕府軍を打ち破り、明治維新を迎えた。

維新後は藩政に参与し、脱退騒動を鎮圧する。のちに政府に出仕し、岩倉使節団に参加して欧米諸国を視察。明治11年(1878年)に初代神奈川県令となり、枢密顧問官を歴任。
同27年(1894年)に第二次伊藤内閣の内務大臣、続いて第二次松方内閣の逓信大臣を歴任した。
晩年は母や兄・九一について綴った「追懐録」、「留魂録」をはじめ松陰の著書を通じ、松陰思想の普及に努めた。


「留魂録」の恩人
明治9年(1876年)、和作が初代神奈川県令に着任した頃のことだった。
一人の老人が和作を訪ねてきた。老人は懐から小さな紙を取り出し、和作に手渡した。
それは、松陰が死の直前に塾生たちに書き残した「留魂録」であった。
老人の名は、沼崎吉五郎。松陰と同じ伝馬町牢屋敷の牢名主をしていた人物であった。
吉五郎は松陰に感銘を受け、尊敬をしていた。松陰は2通書いた「留魂録」のうち1つを、届かないときの為に吉五郎に託していた。吉五郎はその後三宅島に島流しとなった。その間に時代は明治へと変わっていた。彼は肌身離さずもっていたと言われている。
松陰から「長州人に渡して欲しい」と頼まれていた吉五郎は、和作に渡すと何も言わずに立ち去り、その後の行方は分かっていない。
これが唯一現存し、松陰神社に保管される「留魂録」である。


<参考文献:『吉田松陰と塾生たち』 『月刊松下村塾vol5』>



あとがき

どうしたことか。松陰先生を書いた勢いのおかげか、2人目を書くことが出来ました。
九一の実弟・和作です。彼は写真撮ってるんですよね…
なぜに九一は撮らなかった!!?兄弟で一緒に撮ってくれよ!!
どうやら九一の顔は和作の顔から想像をふくらませるしかなさそうです。
さて、最後に書いた「留魂録の恩人」ですが、沼崎吉五郎さんにはホントに感謝です。
松陰先生が塾生に送った留魂録はみんなで読み回している内に、どっかにいっちゃってて書き写したものもところどころ間違いがあったみたいです。ちゃんと管理しとけよ…
つまり彼のおかげで留魂録の完全版が見れるのです。自身も島流しで、本当は約束を守る余裕は無かったのではと思うんです。それでもきちんと果たしたのは、松陰先生の「至誠」の影響なのでしょう。



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